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愛は静けさの中に :Children Of A Lesser God (1986/米)

H91.9 難聴,詳細不明(全聾)

【staffs】監督:ランダ・ヘインズ、音楽:マイケル・コンヴェルティーノ
出演:William Hurt ウィリアム・ハート(James)、Marlee Matlin マーリー・マトリン(Sarah)、Piper Laurie パイパー・ローリー(Mrs.Norman)、Philip Bosco フィリップ・ボスコ(Dr.Curtis_Franklin)
【prises】1986年アカデミー賞、作品賞ノミネート、主演男優賞(ウィリアム・ハート)ノミネート、主演女優賞(マーリー・マトリン)受賞 、助演女優賞(パイパー・ローリー)ノミネート
【my appraise】★★★★-(4 minus per5)
【prot】
ジェームズ(ウイリアム・ハート)は、聴覚障碍を持つ子どものための学校に赴任してきた型破りの教師。彼は、その学校で掃除婦として働く、美しい女性サラ(マーリー・マトリン)に惹きつけられる。彼女は聾学校の卒業生で、激しい性格の女性だったが、自分の障碍のために傷つけられ心を閉ざしていたのであった…。
【impression】
 ジェームスは、サラの傷ついた心に共感し、サラはジェームスを受け入れる。
 しかし、サラは、障碍を持つことを哀れまれることを拒否するだけではなく、自立した女性としてありたいと願っている。自分に従属することを無意識に望むジェームスと、ことごとく衝突する…。
 と、途中までは、女性監督だけあって、うまく調理されたフェミニズムの映画として見ておりました。ジェームスが、自分が男であり健常者であるが故に、女であり障碍を持つサラを従属させようという露骨な態度は、ウイリアム・ハートがうまいのか、地なのか、区別できないくらいよく演じられていました。
 しかし、結局、映画は、その当たりをうやむやにして、2人は邂逅する。
 その結果、フェミニズムの映画としても、障碍を扱う映画としても、中途半端なものになっているような気がします。ただ、その代わりに、恋愛映画としては、秀逸なものになっている気がします。
 難点をあげるとすれば、健常者の観客のためにだと思いますが、サラが使う手話をジェームスがいちいち言葉で訳すところです。健常者には、わざとらしくうるさいし、聴覚障碍者には、その内容が分かりません。
 字幕にすべきだったのではないかと思いますが、どうでしょうか?
【staffs】

 やや時代遅れのファッション・髪型とはいえ、誰もがサラ役のマーリン・マトリンの美しさに惹かれると思います。実は、彼女は演技の上だけでなく、実際に聴覚の障碍を持っています。その意味で貴重な存在でもあり、マーリンは、この映画以外にも、聴覚障碍者の役で、何本かの、ハリウッド映画に出演しています。
 彼女は、映画の後、私生活でも、実際にウイリアム・ハートともおつきあいしたそうです。しかし、「自分はオスカーを逃したのにもかかわらず、マーリンがオスカーを受賞したことで、ウイリアム・ハートが嫉妬して別れた」という、ホントかどうか分かりませんが、いかにもウイリアム・ハートらしい逸話が残っています。

【welfare point of view】
 最近になって、ようやく、聴覚障碍をもつ子どもに対する読話・発語を中心としたコミュニケーション教育が、健常者の都合に過ぎないことの認識が広がっているようです。しかし、この映画の背景となった時代では、そういった認識がほとんどない時代だと思います。
 ジェームスは、聴覚障碍を持つ子ども達に、読話(唇の形から話している内容を読み取る)と発語を教える教師です。彼は、子ども達を教えることには長け、生徒に人望があり、頑迷な校長に比較すると、随分、障碍を持つ子どもたちを「理解」しているように見えます。
 しかし、一方で、ジェームスは手話がかなりぎこちない設定になっています。これが、ジェームスは、聴覚障碍を持つ子ども達を理解しているようでいて、実は、健常者の方に歩み寄ることを強いている、無意識の傲慢さを表しているようです。こういう傲慢さは、ジェームス個人の問題というより、時代や社会の問題として考えるべきかもしれません。
 私の認識が間違っていなければ、現在でも、聴覚障碍を持つ子どもに、手話を主体としたコミュニケーションを習得させるか、読話・発語を主体としてコミュニケーションを習得させるかは、かなり難しい問題だと思います。
 いずれにしても、健常者の側が、聴覚障碍者へ歩み寄る、例えば、手話が教養人の嗜みになるような社会にならない限り、サラのジェームスに対する苛立ちは解消されないように思います。「障碍は、個性である」というフレーズがありますが、聴覚障碍はまさに「個性」であって、 その沈黙の世界を、誰もが共有できればと思います。
 そういう私は聴覚障碍を持っておらず、手話は全くできません。若い頃、勉強する気になったのですが、手話にも、日本語、英語があるんだと聞いて(考えてみれば当たり前ですが、手話という言語は世界で1つと勝手に思っていたのです)、ちょっとやる気が失せたままになっています。この勘違いも、相当、「健常者」的な発想だと、今では思います。
【tilte, subtilte】
 原題の“Children of a lesser god”は、分かったようで分からないフレーズです。原作の訳者である青井陽治氏は、このタイトルを、『小さき神の、作りし子ら』と訳しています。
 原作の戯曲では、1ページ目に、イギリスビクトリア朝の詩人Alfred Tennyson (1809-92) の詩句が引用されています。
  For why is all around us here
  As if some lesser god had made the world,
  But had not force to shape it as he would ?
    何故に、我らの前には、このような世界しかないのか…
    力無き神でもが、この世界を創ったがために、
    彼の望んだような世界が造られなかったということなのか(私の訳です)
 この詩句は、アーサー王伝説を素材とした膨大な作品の一部から引用されているそうです。アーサー王は、ここで、この世界と造り賜うた神の御業を讃えつつ、自分が戦い続けなくてはならない、そして信じる者に裏切られなくてはならないこの世界を嘆き、この言葉が出るのだそうです(以上、三村利恵氏のページを参照させて頂きました)。
 しかし、この詩句を素直に読み、“Children of a lesser god”のタイトルを解釈すると、「神の力がないから、聴覚障碍を持つ不幸な子どもが生まれてくるのだ」と読めてしまいます。私は上で述べたように、そう解釈はしたくないのですけれど。
 原作の邦訳の「小さき神」というのは、詩的で悪くない訳だと思います。ただ、原作の邦訳は、古い訳のためか、全般に固い訳で、意味が伝わりにくく(そういうわけで、私の下手な訳を載せたのですが)、「小さき神」も敢えてそう訳したのでなく、lesserを素直に訳したのではないかと、穿った見方をしてしまいます。「作りし」は、「創りし」だと思うし。
 いずれにせよ、『小さき神の、作りし子ら』だと、映画のタイトルとしてはちょっと通用しにくい…と配給会社が考えるのは無理のないところです。ということで、「愛は静けさの中に」という訳に落ち着いたのでしょう。悪くない邦題だとは思いますが、原題の格調高さは失われています。
 昔ヒットした邦画、「愛は国境を越えて」「愛は空の果てへ」当たりからとったんでしょうかね。

【books】
 マーク・メドフの戯曲『小さき神の、創りし子ら』は前述のように和訳されましたが、現在絶版のようです。この戯曲は、今でも結構演じられるようです。
【videos, DVDs】
 レンタルDVDが04年2月にリリースされました。置いていないショップも多いようですが…。
 なお、聴覚障碍を扱った映画は、今後もいくつかは解説していきますが、「デフ映画」として相当網羅したデータベースサイトを作っておられる方がおられますので、ご参考まで。

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by harufe | 2004-12-30 01:31 | ICD H60-H95 耳乳様突起の疾患


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