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赤ひげ (1965/日)

「赤ひげ」とは~名医の条件

【staffs】監督 : 黒澤明
出演 : 三船敏郎(新出去定(赤ひげ))、加山雄三 (保本登)、土屋嘉男(森半太夫)、江原達怡(津川玄三)、香川京子(狂女)、山崎努(佐八)、二木てるみ(おとよ)、頭師佳孝(長次)、藤山陽子(ちぐさ)、内藤洋子(まさえ)
【prises】1965年キネマ旬報ベスト1、キネマ旬報監督賞(黒澤明):ブルーリボン最優秀賞、主演男優賞(三船俊郎)、助演女優賞(二木てるみ):毎日映画コンクール日本映画大賞:ヴェネチア国際映画祭主演男優賞(三船俊郎)
【my appraise】★★(2 per 5)
【prot】
 保本登は、長崎でオランダ医学を学び、江戸に帰ってきた。学んできた医学をもとに、立身出世をめざす意気盛んな若者である。
 父親に命じられ顔を出した先は、小石川療養所。そこでは、「赤ひげ」と呼ばれる療養所長を含め3名の医者が、貧しく行く当ても希望もない多数の人々を治療していた。そして、保本の意志とは裏腹に、彼は、小石川療養所で住み込み医師として働くことを決められていたのだ。
 留学中の婚約者の心変わりもあり、最初は反発し意固地になる保本であるが、次第に赤ひげの患者に向かう姿勢に共鳴していく…。
【impression】
 日本を代表する映画監督黒澤明の中期の傑作で、原作者の山本周五郎に「原作よりもいい」と言わせしめたとか。
 黒澤明らしいヒューマニズムに溢れた作品なのですが、より重要な黒澤の要素である娯楽作品としての造りが影を潜めているため、私はあまり評価していません。狂女(香川京子)や佐八(山崎努)のくだりに、エンターテイナーとしての黒澤の片鱗が垣間見られますが、全般に、内省的で意外性の少ない映画になっています。退屈するというほどではありませんし、それなりに、楽しめる作品ではありますが、ドキドキ、はらはらする映画ではありません。
 「羅生門」「七人の侍」で国際的な評価を確立していた黒澤明が久々に国際舞台で脚光を浴びた作品でもあります(この作品を最後に、三船俊郎は黒澤作品に登場しません)。この作品の後の作品は、「影武者」「乱」など興行的には成功し、それなりの評価を受けた作品はあります。ただ、中期と比較して内容的に見るべきものがなく、「赤ひげ」を黒澤最期の佳作という見方もできるでしょうか。
 黒澤明監督は30作中で、中期までに23作を残していますが、その中に、医療を主題に扱った映画は、「赤ひげ」を入れて3作品(「酔いどれ天使」(1948)、「静かなる決闘」(1949))あります。比較的、医療こだわった監督といって良いように思います(その他は、野村芳太郎監督、大森一樹監督(医師免許を持っているのである意味自然ですが)でしょうか)。
 初期の2作品は、この作品と異なり、荒削りですが、ヒューマニズムと娯楽性・活劇性のバランスのとれた作品となっています。ヒューマニズムを語るためには、医療という素材が扱いやすかったのかもしれません。
【staffs】
 保本登が長崎留学中に心変わりされるのが藤山陽子演じる「ちぐさ」、そして、映画の最後の方で、あたかもその代役かのように「ちぐさ」の両親が縁談を進めるのが「ちぐさ」の妹、内藤洋子(右写真)演じる「まさえ」。
 美人でしとやかなタイプの藤山陽子と、今風(当時)で妹的でありながら小悪魔的な内藤洋子(本当かな?)の使い分けが、黒澤監督らしいといえば、黒澤監督らしい。
 内藤洋子さんは、喜多嶋舞さんのお母さんなんですね。

【medical view】
 「良い医者」の代名詞として「赤ひげ」が使われます。漫画「ブラックジャックによろしく」以降、手塚治虫の「ブラックジャック」という言葉も使われるようになってきましたが、まだ「赤ひげ」のほうが一般的でしょう。
 ただ、実は、私は、「赤ひげ」=名医とする風潮に相当疑問を感じています。

 「赤ひげのような医者」と誰もが使う表現ですが、実際に、映画「赤ひげ」を見たり、原作の小説を読んだことがある方は、実は少ないように思います。その割には、「赤ひげ」の言葉が人口に膾炙しており、またそのイメージは、なぜか、共通しているように思います。まず、第1に、貧しい人からお金をとらず、金儲け主義ではない、第2に、患者や家族のために親身になってくれる、更に第3に腕がよい、といったイメージではないでしょうか。
 さて、この3つの要件を、映画「赤ひげ」に照らして合わせると、どうでしょうか(映画は原作に大変忠実に作られていますので、原作の小説に照らし合わせても同じです)。
 まず、第1の「貧しい人から金をとらない」という「赤ひげ」要件です。確かに映画の中で、赤ひげは、貧乏な人にはお金をとらないで診療しています。しかし、これは、小石川療養所が、幕府が経営していて、お金のない人を無料でみる医療機関というだけで、実は当たり前です。だから、偉いのは、赤ひげというより、幕府、あるいは、小石川療養所を作った徳川吉宗ということです。
 ただ、小石川療養所は、決められた予算の範囲で診療を行う医療機関のようです。そのため、患者が増えて、多くの診療を行うと、決められた予算をオーバーし、赤字になる仕組みです。これは、多くの欧米の公的な医療機関と同様であり、一方で、現在のわが国の公的医療機関とは異なります(わが国では、公的な医療機関を含む全ての医療機関は、患者が増えれば、その分が診療報酬として支払われている)。
 そのため、赤ひげは、より多くの貧しい人の診療を行うために、お金持ちからべらぼうな代金を要求して、経営にまわす努力をしています。これは確かに、なかなかできないことです。ただし、現在のわが国ではそんなことをする必要はありませんので、それを「名医」の条件にすることはないでしょう。また、欧米の病院の経営者が寄付を募ったり、チャリティーパーティをやるために奔走しているみたいなもので、経営トップとしては、当たり前の行為といえるかもしれません。金持ち患者を脅すより、寄付を募る方が、紳士的かもしれないですし。
 という意味で、貧しい人からお金をとらない…というのは、赤ひげは別に偉くありません。医師の鑑というより、経営者としては一定の資質を備えているということは言える程度でしょう。
 「金儲け主義」でないというところが、赤ひげの優れたところと考えられているのかもしれません。というのも、医療は、通常、患者側が自分の状態を判断し具体的に何をどうしてほしいか決められません。現在の日本の保険制度(正確には「診療報酬制度」という料金制度では)、やればやるだけその分収入になる(「出来高制」といいます)か、決められた額が支払われるか(「まるめ」又は「定額払い」)のどちらかです。お金儲けに走るとすれば、「出来高制」の下では不要な診療をたくさんやる、「まるめ」の下では必要な診療をやらない…ということになります。「金儲け主義」=適切な医療を行わない医師、ということになります。そこに、清貧の赤ひげを求めるということになるのでしょうか。
 しかし、この考え方には意義を唱える方がいます。漫画「ブラックジャックによろしく」に登場する心臓外科医のモデルになったという南淵明宏氏は「いい医者・いい病院の見分けかた」の中で、「病院のレベルは医者の乗る車でわかる」と喝破しています。どういうことかというと、「好い病院は患者が集まる、患者が集まれば病院の経営状態も良い、経営状態が良ければ医師にも相応の報酬を支払える、したがって医師が良い車に乗れる、だから病院の駐車場で医師が良い車に乗っていれば良い病院だ」…ということです。
 現状からいえば、この意見には異論がないわけではありません。
 ただ、優れた医者が、余裕のない生活を送らないと医療が成り立たないというのは、大変困った仕組みです。
 もちろん、「金儲けが出来る」という気持ちだけで医師を目指す人が増えることは、困ったことです。医師には高い倫理性と人間性を持っていてしかるべきでしょう。しかし、高い教育と技術を身につけた者が、清貧に耐えなくてはならない…というのは、果たして正しい姿でしょうか。普通の人間を基準にすると、努力しても清貧…というのでは、どうしても、真面目に努力することへの動機づけが弱まります。また、「衣食足りて礼節を知る」を知るという言葉通り、一定の安心できる生活基盤があってこそ、倫理性と人間性が発揮しやすくなるのではないでしょうか。そもそも、例え「金儲け」が好きであっても、腕が良く、患者本位の医師は、優れた医師として歓迎すべきではないでしょうか。
 医師がリッチであることが嫌われるのは、ジェラシーもあります。「成功した人に対する嫉妬心」は、誰もが持つ者です。それはそれとして、名医の条件に清貧であることを入れる必要はないと思います。
 この点、現代版名医である「ブラックジャック」は、その技術に対して、法外な料金を要求し(医師法無視の自由診療だからですけど)、「患者の命を懸けて手術する医者が十分な金をもらってなぜ悪いんだ!」と喝破し、ある意味で、「健全」です。なお、彼は、お金のない困った方には無料で手術するような「赤ひげ的」なこともやりますが、保険がきかないのですから、自慢するほどのことではないでしょう。
 とはいえ、現在のところでは、「医師がリッチになって何が悪い」と言い切りにくい状況にあります。そのためには、まず、医師の選抜や教育の際に、倫理性と人間性の欠けた「金儲けだけ」が目的の者を排除する必要があります。また、何よりも、患者の側に、「いい加減で儲けているのか」「まじめにやって儲けているのか」を見分ける消費者性やそれを支える情報開示が要求されるでしょう。

 さて、この観点から気になるのが、「赤ひげ要件」の第2、「患者・家族に親身」です。
映画では、赤ひげは、患者に対して、決して親切ではなく、無骨でぶっきらぼうです。本人や周囲の者が何といおうと、自分が患者のために正しいと思うことは貫き通します。つまり、「親身=親の身になる」といっても、父親的な親身なのです。これは、ブラックジャックも同様です。
 この「父親的親身」を名医とするところが、私には、やや心配な点です。「父親的親身」(パターナリズム)は、お医者様に全てをお任せする「お任せ医療」に通じます。「医師と相談しながら、自分で決める」という態度ではないわけです。「自分で決める」からには、自分で情報を集め、勉強し、判断する必要がありますが、それを放棄しているわけです。
「難しいことは分からない、ボタン1つで動くこと」は電化製品に要求されることでしょう。電化製品と医療を一緒にするのもなんですが、消費者とすれば、その方が有り難いことは間違いないです。ただ、電化製品は、優れているかどうかは、買って使ってみればすぐ分かります。 しかし、医療はそうはいきません。つまり、消費者として賢くなることが要求されるわけです。
 消費者が賢くならなければ、インチキをして儲けているのか、技術が高くて儲かっているのかが、区別できません。そうなると、儲けている=悪い医者という図式も否定できなくなります。
 人が「頑固オヤジ」を求める理由は、「それが楽」というだけ以外に、「愛想でごまかしていない」というのもあるでしょう。さらに、失われつつある父親=絶対者を求めたいというメンタリティがあるのかもしれません。
 もちろん、医師が、頑固で信念を持つことは、悪いことではありません。しかし、映画の中の赤ひげのような頑固さを名医に条件に加えるのは問題があります。そこに人は「この人に任せておけば間違いがない=自分は何も考えなくても良い」という、心持ちがあると思うからです。

 私が、未だに何十年前の映画や小説をもとに、「赤ひげ」を名医とするのに疑問を感じるのは、以上の理由です。

 さて、最後に、蛇足のようになりますが、赤ひげ要件の第3「技術が高い」です。
 実は、映画の中で、赤ひげの医師としての腕の良さは、全く登場しません。ただ、名医だということになっていて、大名からお金をふんだくる場面はでてきます。むしろ、「あらゆる病気に治療法などない」とか「医者は症状と経過は認めることができるし、生命力の強い個躰には多少の助力をすることもできる、だが、それだけのことだ、医術にはそれ以上の能力はありゃしない」と開き直っております。
 ある意味、当時の医療水準からすれば正直で「無知の知」的なレベルの高さは感じます。ただ、技術が高いことは全くうかがい知れないところです。

【books】
 原作は山本周五郎「赤ひげ診療譚」。
 周五郎は、1903年生まれ(黒澤明は1910年)。大衆娯楽雑誌に執筆活動を続け、「純文学」を重視するわが国に文壇では黙殺されがちでした。エンターテイメントを追求したという意味で、黒澤明と相通じるところがあるような気がします。ただ、黒澤が「巨匠」と芸術家として祭り上げられたのに対して、周五郎は直木賞固辞を初め「文学賞」など既成の権威に敢然と抵抗したのだそうです。
 『赤ひげ診療譚』は、1958年「オール読み物」に8回連載され、TVドラマ化もされ人気を集めたのだそうです。
 原作の「おくめ殺し」の章以外は、原作に忠実に作られた映画です。
【videos, DVDs】
 04年春に、黒澤明の映画はDVDとしてレンタル・リリースになりました。まともなショップなら、この作品も置いていることと思います。

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by harufe | 2005-01-04 21:56 | 基礎医学と医療制度


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