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愛する (1997/JPn)

 A30 ハンセン病

【staffs】監督・脚本:熊井啓
出演: 酒井美紀 (森田ミツ)、渡部篤郎 (吉岡努)、岸田今日子(加納たえ子)、宍戸錠(知念)、小林桂樹 (上條老人)、上條恒彦 (奥原院長)、三條美紀 (稲村看護婦長)、岡田眞澄 (大学病院教授)、松原智恵子(シスター山形)
【prises】1997年 日刊スポーツ映画大賞受賞、新人賞(酒井美紀)受賞
【my appraise】★★(2 per5)
【prot】
 クリスマスの日、少女ミツは、幕張の路上で牛丼弁当を売っている沖縄出身の青年吉岡努に出会う。互いの中にある孤独に直感的に惹かれ合い、一夜を共にする。努はミツを避けるようになるが、ミツの愛はひたむきである。そんなミツに努も心を許すようになる。
 しかし、ミツの腕にある瘢痕が大学病院で重大な病気と診断され、山奥の療養所に行くように告げられる。その療養所はハンセン病の療養施設であり、長期の療養が必要と告げられる。引き裂かれる二人…。
【impression】
 本作は、原作の遠藤周作「わたしが・棄てた・女」の映画化であるが、映画化はこれが2回目。本作は、粗筋と大枠の設定をそのままとして、戦後復興期の時代設定を、現代に持ち込み、ハンセン病という難しいテーマに切り込んでいる(1回目の映画化では、原作を換骨奪胎し、ハンセン病の設定は用いられていない)。また、原作では、吉岡に婚約者ができミツとの付き合いを「遊び」と割り切ろうとしているのに対して、本作では吉岡がミツに対して、より真摯に向き合おうとしている。これらの極めて難しい設定を持ち込んだことは、熊井啓が遠藤文学に拘り、「海と毒薬」「深い河」に続き、本作を三部作目としたことと無縁ではなく、その意気込みを買いたい。
 しかし、残念ながらその試みは全く失敗している。遠藤原作の持つ、気恥ずかしく物哀しい純朴さの畳かけと、それによって自らの中にある欺瞞や稚拙が惹起されるという構図は全く失われ、手あかにまみれた「純粋さ」の安売りと不自然なストーリーにより、脱力させられる。酒井、岸田の熱演も虚しく、やはり、この難しい設定がこの作品の失敗の全てではないかと思う。
 繰り返しになるが、らい予防法廃止が進められている難しい時期に、このテーマに向き合おうとした監督の意欲は買うべきだろうと思う。
【staffs】酒井美紀は15歳でアイドル歌手としてデビューし、中山美穂の中学生時代役を演じた岩井俊二監督「Love Letter」(1995)で注目を集め(第19回日本アカデミー賞新人俳優賞)、1997年にはこの映画と大河原孝夫「誘拐」(第21回日本アカデミー賞・優秀助演女優賞受賞)で女優として羽ばたくかに見えました。しかし、その後、伸び悩んでいるのか、ドラマ「白線流し」がヒットしたのが仇となってTVで芸を擦りきれさせているのか、最近どうもぱっとしません。
 この映画でも、彼女しか演じられない部分を演じているように思えるのですが、日本の俳優にありがちな「単に自分を演じていることが演技として認められる」というやつなのでしょうか。
 是非、今後の活躍を期待したいところです。

【medical view】
 ハンセン病は、ライ菌という細菌によってもたらされる病気であり、中世ヨーロッパにおいて広い範囲で流行し、15世紀には、なぜだか欧州からほとんど姿を消した病気です。ライ菌が発見されたのは1873年で、効果的な治療法が発見されたのは20世紀に入ってから、にもかかわらずです。
 ハンセン病は人から人への感染が起こる病気です。しかし、現在では、そもそも排菌する者は感染者・発症者の一部であり、しかも極めて感染力が弱く、感染しても菌がほとんど死滅することが分かっています。したがって、幼児期や耐性が弱っている時くらいしか人から人への感染は起こらない病気です。また、化学療法により容易に完治する病気となっています。ただ、現在でも、排菌者との接触が全く無い場合に、感染を起こす場合があり、人から人への感染以外の感染経路があるのではないかと考えられていますが、よく分かっていません。そもそも、なぜ、突然流行が下火になったのかすら、本当のことが分かっていない訳ですし。

 化学療法が導入される以前、不幸にして感染し、侵入した菌が生き残ると、皮膚や神経で増殖を開始し、数年後皮膚に痛みのない痣が現れ、痣は拡大し腫瘤状になり、とりわけ顔面に発生し、特徴的な容貌の変化が起きました。また、知覚神経が障害され、感覚を失うことにより、傷を負っても気づかなくなり、化膿を繰り返し、最終的には壊疽に陥り、さらに、運動神経が障害され、筋肉が萎縮して手足が大きく変形することになりました。このような、特徴的な外見の変化が、他の疾患以上に極端に恐れられてきた大きな原因の1つでしょう。
 ハンセン病は、上述の通り、感染力が弱いにもかかわらず、過去、多くの国で、隔離・排除が行われてきました。特に、日本では、戦後、化学療法導入後も、無意味な法制度が廃止されるどころか強化され(1953年「らい予防法」成立)、厳しい隔離・排除が継続し、隔離施設の中での人権が極めて制限されていました。その後、関係者の積年の苦労が実り、1996年菅直人厚生大臣が過去の行政の誤りを患者・元患者に対し認めると共に、同年「らい予防法」が廃止されました。更に、2001年元患者が国家賠償を求めた熊本地裁の判決は患者側の勝訴となり、小泉首相が国側が控訴しないことで結審しました。

 さて、この映画、及びその原作である遠藤周作の「わたしが・棄てた女」では、ハンセン病と誤診される純朴な少女を通じて、ハンセン病者が受け入れざるをえない過酷な運命を描き出しています。この映画に対する当時の記事によれば、「完成した作品を見た患者たちの反応は、「長い間、言えなかったことを映画で語ってくれた」という」ものだったとのことです(正しくは、「元患者」だろうと思いますが)。
 それでは、この映画や原作が、ハンセン病の理解の一助となるのか、というと、そうではなく、むしろ差別偏見を助長するだけでしかない、と武田徹氏が「感傷主義」という言葉で喝破しています(【books】で所収書籍を後述)。まず、原作の時点では、ハンセン病はプロミンによって完治する病気であり、隔離そのものが間違っていたという事実に基づいていないという点が指摘されています。また、映画の時代設定の時点では、「らい予防法」廃止に向けての具体的な動きがなされている時期であり、療養所送致そのものが余りにも不自然であると指摘し、にもかかわらず、ハンセン病=隔離されて可哀想であるとする「感傷主義」は、ハンセン病=治らない、感染する、怖い病気という偏見を煽るに過ぎないとしています。
 武田氏の指摘は、映画や文芸作品として、正当に評価したとはいえないかもしれません。しかし、「表現」が前提としている事実が、誤った「常識」に乗っ取っている場合、いくらその表現が卓越していたとしても、「誤った常識を強化する」という点で非難されるべきものでありましょう。丁度、犯罪を煽るような表現が糾弾されるのと同じことだと思います。

 ハンセン病の不当な排除・差別・隔離の歴史、そして、それが特に日本においてなぜかくも過酷であったかについては、2001年熊本地裁判決を前後して、ハンセン病に関わってきた方々の真摯なる検討が進み、全体像が解明されつつあるように思います。ただ、この理解が、果たして、一般社会にとっての理解になっているか、あるいは、ハンセン病排除に苦しめられてきた人達の問題が解決しつつあるのかといえば、暗澹たる気持ちになります。
 ハンセン病の排除・差別・隔離の歴史は、「国家の犯罪」として、あたかも官僚や政治家の不作為の問題に歪曲化するのは、馬鹿げています。また、無知蒙昧でしかなかった医学界や、ハンセン病医療の権威・ハンセン病者の慈愛の父として朝日文化賞・文化勲章を受賞した故光田健輔氏だけの責任とすることも、事実を矮小化しています。丁度、薬害エイズ問題を、官僚や薬品会社あるいは医学界の権威だけの問題であるかのように非難することと同等であると思います。
 例えば、「戦後はプロミンが登場し、完全に治癒する病気となったのだから、排除・隔離は間違いだった」という説は、立法と行政を吟味する場、あるいは国家の責任論において、適切な論拠であるかもしれません。しかし、それ以前に、ハンセン病という病気が、少なくとも15世紀以降は極めて弱い感染力しか持たず、外来治療で十分であったこと、しかも、戦前から京都大学でハンセン病の外来治療を実践していた小笠原登によれば、プロミン登場以前からハンセン病は治癒する病気であったとしていること(元厚生労働省医務局長大谷藤郎氏のいわゆる「大谷証言」による)、にもかかわらず、排除・隔離が進められていったこと、こういったことが「常識」として伝え継がれていかないということは、残念な状況です(なお、前述の武田氏も、ブロミンの効果しか指摘しておらず、大谷証言を「常識」としていないようです)。
 また、ハンセン病の不当な排除・差別・隔離には、我々国民、社会の側がそれを認めた、あるいはそれを推進したという面があります。そして、それを促進した、表現や報道があったということは間違いありません。「ハンセン病者を可哀想」という「ヒューマニズム」こそが危険であり、「ハンセン病は治らないもの」「ハンセン病になると大変」という意識に基づいていたり、それを煽るものであったりします(実際に、ハンセン病排除で徹底的な悪者にされる光田健輔氏ですら、ヒューマニズムに基づいていたのですから)。
 そう考えると、「常識」を持つことの難しさと重要さを改めて感じるのでした。
【tilte, subtilte】
 原作のタイトルはディックミネの歌からとったようです。設定を変更したことにより(吉岡がミツを「棄てる」という設定がない)、タイトルが変更されたということと思われます。

【books】
 遠藤周作原作「わたしが棄てた女」は、上に述べたように、「感傷主義」に留まった結果、ハンセン病の正確な理解を閉ざすものですが、十分な理解を持ったうえで読めば、「感傷主義」の理解と、遠藤文学の面白さを味わえるはずです。
 原作及びこの映画について、ハンセン病理解の観点から批判した武田轍「描かれたハンセン病」は、沖浦和光・徳永進編「ハンセン病」に所収されています。わが国でなぜハンセン病がここまで不当な排除・差別・隔離を受けてきたかについて、様々な角度から、日本社会が犯してきた過ちとして解明しています。我々が当たり前としている、この社会を理解する上での、必読書でもあります。
【videos, DVDs入手しやすさ】★★
 セル・レンタル共に、ビデオしかリリースされていません。しかも、置いているショップもなかなかないようです。

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by harufe | 2005-07-17 10:58 | ICD A00-B99感染症及び寄生虫症


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