マイフレンドメモリー : The Mighty(1998/米)

E76.2 その他のムコ多糖(体蓄積)症(モルキオ症候群)

【staffs】監督 :ピーター・チェルソム
出演 :キーラン・カルキン(Kevin Dillon)、エルデン・ヘンソン(MaxwellKane)、シャロン・ストーン(Gwen Dillon)、ハリー・ディーン・スタントン(Grim)、ジーナ・ローランズ(Gram)
【prises】(not worth mentioning)
【my appraise】★★★(3per5)
【prot】
 祖父母に育てられ学習障害(識字障害?)を持ち、体格は良いがでいじめられっ子のマックスの家の隣に、難病(Moruqio症候群)の少年ケヴィンが母(シャロン・ストーン)と越してきた。
 病気をもちながら、該博な知識を持ち、誇り高きケヴィンは、マックスを勇気づけ、二人はたちまち親友となる。ケヴィンの頭脳と、マックスの体が一体となれば、勇者フリークとなるのだ…。
【impression】
 余命幾ばくもなく障碍を持つ子どもの母をシャロン・ストーンが熱演し、その他の俳優もそれぞれの熱演ぶりが光ります。ストーリーも厭きさせません。ただ、単なるお涙頂戴物にすることに制作側がとまどいがあったのか、インパクトの面ではやや弱い気がします。

【medical view】
 Moruqio症候群は先天性のムコ多糖代謝異常症の1つ。ムコ多糖を分解する酵素が生まれつき欠けていることによって、分解されないムコ多糖が、神経や骨など、体に悪い影響をもたらすという病気です。知的障害をもたらす場合が多く、進行性で、また、成人に達するまでに死亡する型もあります。モルキオ症候群の場合は、骨の変形の一方で、知的な障害は現れません。詳しくは、ムコ多糖症親の会のHPをご覧下さい。
 残念ながら、今のところ効果的な治療法がありません。欧米では、酵素補充療法の臨床試験が行われる予定(もう行われているかも)で、期待がかかっているそうです。こういう病気は、まだまだ多いのです。
 日本では、ムコ多糖類代謝異常全体、4~5万人に1人に発生しますが、一般に余りにも知られておらず、その研究や薬の開発が遅れています。こういう映画を機に、一般の方々の認識を高めたいところですが、私の見たDVDの字幕ではMoruqioの言葉が訳されておらず、なんの病気高分からなくなっており、しかもDVDの情報としても掲載されていませんでした。劇場ではどうだったのか知りませんが、大変残念です。

【books】
 原作は『フリークザマイティ』。残念ながら絶版です。
【videos, DVDs 入手しやすさ】★★★
 DVDレンタルが出ていますが、置いていないショップの方が多いようです。

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# by harufe | 2005-06-18 08:33 | ICD E00-E90内分泌栄養代謝疾患

パニック・ルーム : Panic Room(2002/米)

E100 インスリン依存性糖尿病<IDDM>,昏睡を伴うもの

【staffs】監督 :デビット・フィンチャー
出演 :ジョディ・フォスター(Meg Altman)、フォレスト・ウィテカー(Burnham)、ドワイト・ヨーカム(Raoul)、ジャレッド・レト(Junior)、クリステン・スチュワート(Sarah Altman)
【prises】(not worth mentioning)
【my appraise】★★+(2 plus per5)
【prot】
 メグは、資産家で熟年の夫と離婚し、娘のサラと二人でニューヨーク市街の邸宅に越してくる。その邸宅は、大富豪が遺したもので、パニックルームと呼ばれる緊急避難室が設けられている。彼女たちが引っ越してきたことを知らない3人組強盗が、引っ越し初日の深夜、大富豪が隠した財産をねらって侵入してくる。
 メグとサラはパニックルームに逃げ込むが、サラが小児糖尿病の低血糖発作に襲われる。母娘は必死に外部への連絡を試みるが…。屋敷内を舞台にしたサスペンス。
【impression】
 それなりに面白く見られます。ただ、もう少し面白くなりそうでならないので、やや歯ぎしりしたくなる作品でもあります。
 特に、デビット・フィンチャー監督だから、とか、「ジョディが『ハンニバル』を蹴って出演した作品」というガセネタを信じていたりすると、期待を裏切られる気分になると思います(本当は、「ニコール・キッドマンが怪我をした代役に指名されて、カンヌの審査委員長を蹴って出演した作品」ということらしい)。
【medical view】
 ジョディの娘役の女の子クリスチャン・ステュワートが演じていたのは、IDDM(インスリン依存型糖尿病)です。彼女が常に気にしていた腕時計みたいなのは、グルコウォッチといって血糖値をモニタする機器だそうです。欧州でのみ認可されていて、日本ではもちろんアメリカでも認可されていないらしい。認可されていないようなものも使えるようなリッチなご家族ということなのでしょうか。

 IDDM(インスリン依存型糖尿病)は、1型糖尿病とも言われ、一般によく知られる生活習慣病である糖尿病(2型)とは成因が全く異なります。
 一般に知られている糖尿病(2型)は、中年以降、食生活・生活習慣や体質により発症するのに対して、1型糖尿病は過去のウイルス感染等が原因でインシュリンを生成する膵臓機能がダメージを受けるため生じます。その多くが小児期に発症しますので、小児糖尿病とも言います。

 この映画でうかがい知れるように、本人・家族共に、日常生活に気を遣います。また、学校で、子ども自らで血糖値をはかったり、インシュリン注射をしたりと、大変な苦労がある上に、残念ながら、他の子ども達から好奇の眼で見られることが多く、本人が精神的にも辛い思いをする場合が多いようです。
 詳しくは、日本IDDMネットワークのページをご参照下さい。
 この映画は、IDDMの家族や本人達の間で、一時話題になったようです(私の知るIDDMの高校生は知りませんでしたが)。糖尿病は、病気のコントロールがきちんとなされていれば、普段は無症状です。しかし、それを怠ると生命に関わる症状があらわれる場合があります。
 糖尿病を原因で、昏睡状態や意識レベルが低下するのは、糖尿病性ケトアシドーシス(基本的にIDDMのみ)や高血糖高浸透圧性昏睡が知られています。これらは、治療が行われていないために、体内のインスリンが無い・不足し、細胞が血中の糖を取り込むことができなくなる(血糖値が異常に高くなる)ことによって起こります。一方、インスリンのコントロールを間違えた場合、低血糖になることによっても、この映画のような症状が現れます。
【tilte, subtilte】
 あらすじにも書いてありますが、原題のPanic Roomは、主として豪邸で、強盗から襲われた場合に逃げ込めるように造りつけてある緊急避難部屋です。
【books】
 ノベライズが出ています。
【videos, DVDs入手しやすさ】★★★★★
 ビデオ・DVDともレンタルがリリースされています。話題作でしたから、どのショップにも必ずあります。

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# by harufe | 2005-06-17 09:23 | ICD E00-E90内分泌栄養代謝疾患

レナードの朝: Awakenings(1990/米)

 G21.3 脳炎後パーキンソン<Parkinson>症候群

【staffs】監督 : ペニー・マーシャル
出演 : ロバート・デ・ニーロ(Leonard Lowe)、ロビン・ウィリアムズ(Dr. Malcolm Sayer)、ジュリー・カヴナー(Ealenor Costello)、ルース・ネルソン(Mrs.Lowe)、John Heard ジョン・ハード(Dr._Kaufman)、ペネロープ・アン・ミラー(Paula)
【prises】
1990年アカデミー賞作品賞ノミネート、主演男優賞(ロバート・デ・ニーロ)ノミネート、脚色賞(スティーヴン・ザイリアン)ノミネート:ゴールデン・グローブ賞ドラマ主演男優賞(ロビン・ウィリアムズ)ノミネート:NY批評家協会賞主演男優賞(ロバート・デ・ニーロ)受賞
【my appraise】★★★+(3 plus per5)
【prot】
 研究者志望のセイヤー医師は、勘違いから自分の希望とは異なる精神神経科の慢性病棟に勤務することになった。その病棟で、彼は、嗜眠性脳炎に罹患後、強度のパーキンソン症候群となり、全く動きを失った患者達の集団に出会う。
 セイヤー医師は、新しく開発された薬Lドーパを、その中の1人レナードに試みる。最初は効果がないかにみえたが、ある朝レナードは奇跡の復活をみせる。数十年ぶりに目覚めたレナード。奇跡に歓喜する本人と母、そして病院スタッフだったが…。
【impression】
 デ・ニーロの役作りには逸話はつきませんが、この映画も、彼の逸話の1つに加えられるものです。この作品は、神経科医である原作者がコンサルタントとしてこの映画に関わっているのですが(後述)、彼もデ・ニーロはうまさには舌を巻いた、と原作の改訂版に著しています。
 原作にはなかったレナードのラブロマンス、ポーラ(ペネロープ・アン・ミラー→右写真)との出会いなどが加わることで、病気の残忍さと人間の強さのコントラストが見事に描かれています。

【medical view】
 私は、原作を読む前に、劇場でこの映画をみました。
 映画を最初に見た時、レナードの状態が悪くなるにつれ、レボドパを増量するセイヤー医師に姿に、いたたまれない気持ちになりました。というのも、セイヤー医師が、新薬レボドパを増量する気持ちには共感するものの、それは現代の医療では相当問題のある投与法だからです。例えば、レナードが苦しめらる幻覚や不眠といった症状は、典型的なレボドパの副作用です。にもかかわらず、レボトパを増量するのは、医学の進歩の過程としてはやむをえないとしても、その犠牲となったレナード達の患者への同情を禁じ得ませんでした(ちなみに、レボドパ(L-ドーパ)という薬は、現在もパーキンソン病および、」パーキンソン症候群の治療の中核をなす薬です、レボドパは、神経学や神経化学の基礎的な教科書に必ずとりあげられほどの薬ですので、その作用・副作用については、ここでは述べません)。

 ところが、映画では、セイヤー医師の実験的な治療が断罪されることはなく、最後までセイヤー医師の「ヒューマニズムに溢れた」医療が賛美されるのです。
 これはいくらなんでもおかしい。原作者だって、おそらく、自分の過ちを断罪しているに違いない。映画監督やハリウッドの間違った脚色だ。…私は、やや憮然としながら、原作を紐解いてみました。
 しかし、原作を見ると、更に、驚く事実がありました。なんと、原作者であり、セイヤー医師のモデルであるオリヴァー・サックス医師は、映画のセイヤー医師以上に、現在からみると極めて問題のある「治療」を行っていたのです。具体的には、現代では禁忌とされているレボドパ大量投与や突然の投与中止が行われていたのです。サックス医師が著述した患者はしばしば突然死していますが、これはレボドパの大量投与による悪性症候群が原因と疑われる患者が少なくありません。セイヤー医師の治療は、現在からふり返ると、「人体実験」に近い行為です。
 もちろん、サックス医師がレボドパで治療を行っていた時点では、これらの治療法が、かえって症状を重くし、重篤な副作用をもたらすことは知られていなかったのだと思います。また、レボドパの効果が明らかに大きく、医療倫理の面からみても、「行きすぎ」と非難すべいことではないように思います。ちょうど、外科手術がはじまった頃、ろくな消毒をしないで行ったために、患者が助からなかったようなもので、単純に今の基準で非難すべきではないでしょう。サックス医師の行為は、「新しい方法を治療に応用する場合には、予想される効果、危険性及び不快さを、現行の最善の診断法や治療法による利点と比較考慮しなければならない」という医療の倫理綱領(ヘルシンキ宣言)に照らし合わせても、間違っているとはいえません。
 しかし、このような、いわば、形式的な問題はともかく、自分の実験的医療が、多くの犠牲者を出していた可能性があることがことが分かってくれば、当然、サックス医師は、自分自身を断罪すべきと思います。「レナードの朝」を執筆した時点(1973年)では無理だったかもしれませんが、現在の版(1990年)では、そのことは十分分かっていたはずですから。
 しかし、サックス医師は、著作の中で、自分の治療の誤りについては一言も述べていません。版が改められるたびに、膨大な注釈が加えているにもかかわらずです。唯一、日本語文庫版の背表紙に「この薬には知られざる「副作用」があったのだ」と書かれているだけです(これは、日本の出版社が書いた文章です)。
 私は慄然としました。映画が間違っているのではなく、原作者そのものが自分を断罪していなかったのです。
 そういえば、映画の中では、レナードへのレボドパ投与量は最大1回1000mgまでしか増量していませんでした。現在わが国では1日投与が最大1500mgですから、欧米人を想定すると大きな問題とはならない量なのかな…と観ていた。しかし、原作ではレナードには1回5000mgも投与しているではありませんか。これを映画では敢えて1500mgまでしか増量していないのは、明らかにサック医師が「分かっていてわざと隠している」としか思えません。

 医療の進歩はトライアルの上に成り立っているものです。医療が進歩し、新しい治療法が生まれるたびに、その「実験」となっている患者の存在があります。もちろん、先にあげたヘルシンキ宣言に乗っ取ることはもちろん、患者に害がもたらされることはできる限り避けなくてはなりません。
 それでも、そもそもあらゆる医療は大なり小なり「害」をもたらすものです。開発されたばかりの医療は、どんなに慎重に実施したとしても、予期できない副作用を避けることはできません。特に、レボドパのような画期的な効果がある新薬が、知られざる副作用を持つとすれば、それが多くの犠牲をもたらすのを防ぐことは難しいように思えます。
 映画「レナードの朝」は、本来、そういう点を考えさせてくれる映画なのだと思います。我々が、原作者の過去のレボドパの使用の誤りそのものを断罪すべきではありませんが(そうでないと、医学の進歩はありえなくなってしまいます)、本人や医療従事者がそれをふり返ったとき、「手続きの正当性」に甘んじるのではなく、「結果責任」に対して、真摯な気持ちで反省すべき点だと思います。そういった謙虚な姿勢が失われ、医療従事者の奢りが頭をもちあげた時、「手続きの正当性」の主張は、人類にとって害をもたらす可能性すらあります。

 この映画は、どうひいき目に観ても、原作者の「医療事故」は隠蔽するような内容になっているのがとても残念です。「熱意だけの医療は偽善と医療ミスしか産まない」として観てしまう私は、へそ曲がりでしょうか。
 こういった点は、本国アメリカでは、どのように取り上げられているのでしょうか。私は寡聞にして知りません。

 ところで、レナードの強烈なパーキンソン症候群の原因疾患である嗜眠性脳炎は、過去大規模な流行が何度もあったようです。しかし、なぜか1928年以降大規模な流行はないそうです。ということは、突然、また流行が起きるかもしれない…ということですね。
 本当に、感染症というのは、恐ろしいものです。

【tilte, subtilte】
 原作及び映画の原題であるAwakeningsは、直訳すれば「目覚め」。嗜眠性パーキンソン病による強度のパーキンソン病からの「目覚め」を表現しています。
 「レナードの朝」という邦題も悪くはないですね。

【books】
 この映画は実際の患者について、サックス医師が著した原作をもとに製作されています。原作では、20名の患者についての生活歴、病歴、治療歴を示しており、レナードはその1人に過ぎません。
原作には、患者の表情や日常の様子を示した写真が掲載されており、病気の持つ独特の雰囲気を伝えてくれています。
【videos, DVDs】
 最近の大変著名な作品で、どのショップにも必ずレンタルDVDが置いてあると思います。

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# by harufe | 2005-01-10 16:47 | ICD G00-G99神経系の疾患

少年の町: Boys Town (1938/米)

【staffs】監督 : Norman Taurog ノーマン・タウログ
出演 : スペンサー・トレイシー(Father Flanagan)、ミッキー・ルーニー(Whitey Marsh)
【prises】1938年アカデミー賞主演男優賞(スペンサー・トレーシー)・原案賞受賞、作品賞・監督賞(ノーマン・タウログ)・オリジナル脚本賞ノミネート
【my appraise】★★(per5)
【prot】
 第二次大戦前のアメリカ、大恐慌で都市に溢れる孤児達。ネブラスカ州オマハで活動するフラナガン神父は、彼らが貧困と犯罪の連鎖を生むことに心を痛め、行き場のない少年達が暮し、職を身につけるセツルメント「少年の町」を創始した。
 財政難に苦しみながら、「札付きの不良」も受け入れていく…。実在の話をもとに映画化。
【impression】
 主演のフラナガン神父を演じたスペンサー・トレーシーをご存じという方は、年配の方だと思います。多くの方は、トム・ハンクスが2年連続オスカー受賞(「フィラデルフィア」「フォレストガンプ」)の際に、「スペンサー・トレーシー以来」と言われたことで記憶にあるくらいかもしれません。
 それくらい古く、そのぶん、現代的な鑑賞には耐え難いところがあります。
 ただ、忘れかけていた単純な正義や素直な人間性を思い出すには、こういう映画もいいなあ、と思える映画です。また、古き良き時代のハリウッドのメリハリのきいた演技や滑舌の良さには、背筋が伸びる感じもします。

【medical view】
 この映画の「少年の家」は、今のわが国でいえば「児童養護施設(昔は孤児院とも言いました)」に「児童自立支援施設」の機能を加えたようなものでしょうか。といっても、映画であったような少年達の自治組織は本格的なもので、実際に、1936年以後には正式の地方自治体の町として認められているので、わが国の児童福祉施設のイメージでは語れないでしょう。
 いずれにしても、この映画で描かれている当たりが、戦後日本の子どもの福祉の原点といっても良いと思われます。実際に、「少年の町」のフラナガン神父は、1947年、日本の戦災・引き上げ孤児対策についての助言のために、GHQマッカーサー元帥に招聘されたことがあるそうです。現在のわが国の児童施設の人員・施設の「最低基準」(業界では当たり前になっているが、変な言葉だ)は、フラナガン神父の助言で導入されたのだそうです(ちなみに、「少年の町」の影響で、わが国にも神戸市、仙台市、新潟市、因島市に同様な事業が行われたのですが、今では、「神戸少年の家」にその名前を残すだけとなっています)。
 オリバーツイストの時代から「貧困は罪」と考えられていました。そのため、「浮浪者」や「浮浪児」は犯罪者扱いで、彼らを収容する施設は劣悪を極め、ろくろく食事も与えられませんでした。孤児院に入れられることを「浮浪児」達はなによりも恐れました。
 しかし、フラナガン神父は、貧困は環境の問題であり、環境を変えれば、人は正しい道を歩くという信念をもって「少年の町」を築いたわけです。こういう背景が頭にないと、「少年の町」の卓越性を知ることができません。また、フラナガン神父も相当讃えられるべきですが、経営面を支えた親友のイブ・モリスの偉大さも讃えられるべきです。丁度、ホンダの本田宗一郎に対する藤沢武夫というポジションだと思います。

 ところで、戦後60年を迎えようとしている現在、わが国の児童福祉施設においては、「少年の町」で描かれた親や住む場所がない子どもたちの割合は圧倒的少数派となり、むしろ、親から不適切な育児しか受けられなかった子どもたち、特に「被虐待児」の割合が急速に増大しています。
 いうまでもなく、こうした不適切な育児しか受けていない子ども達、特に「被虐待児」に対しては、単に衣食住を提供すれば良いわけではなく、心に追った深い傷を癒すことが求められます。もちろん、「少年の町」に登場した子ども達でも、世間ずれして逞しいとはいえ、社会や人間に対する信頼関係を再構築することが重要で、それは映画でも重要なテーマとなっていました。それでも豊かな時代の児童福祉施設の方が、相当に困難なケアを求められていることは、容易に想像できます。
 虐待を受けた子ども達の多くは、「自分の唯一の手掛かりである親が自分を虐待する」ということを、「自分が悪い」と受け止めるのだそうです。誰が見ても親の側に問題があり、親から子どもを引き離し、施設に入所となった場合でも、子どもの側は「自分が悪いから、親にも見捨てられた」と考えるのだそうです。虐待というトラウマに加えて、施設入所というトラウマが加わるということです。
 このような中で、映画「少年の町」で描かれたような大規模な施設はあまり適切ではないのではないかと考えられるようになってきました。むしろ、数名の子ども達とケアワーカー達が、家庭的な雰囲気の中で共に暮らす形が(グループホームと呼ぶのが一般的です)理想とされるようになっています。アメリカでは里親が主流であって、特別なケアを必要とする子ども達以外を、集団的にケアする施設は消え去っていると聞きました。日本では、里親制度が十分根付いておらず、施設入所となる児童9に対して1程度のようです(わが国の里親制度の課題については、読売新聞のサイトをご参考下さい)。
 いずれにしても、虐待の問題が注目されて久しいにもかかわらず、早期の発見・対応や親への断罪の方に注目が集まり、その後の子ども達をどう援助するかについての社会的関心が薄いのは、残念なことです。

 ところで、以前から気になっていたのは、「フラナガン神父」ということは、彼がカソリックということです(プロテスタントは牧師なので)。日本人には、カソリックとプロテスタントは大きな差がないように思います。しかし、アメリカではプロテスタントが主流で、カソリックは因習的なイメージが強く、差別されてきた歴史もあるのです。
 そういった背景を考えると、フラナガン神父の活動も、差別されてきたからこその活動という見方もできるような気がします。こんな穿った見方をするのは、私自身が、「法王の右腕にしてその厳格さから最も迫害される割りには、経営する学校で宗教教育をやらない」J会の経営する中学高校を卒業したためでしょう。
【tilte, subtilte】
 この映画のタイトルの「少年の町(Boys town)」は、事業やセツルメントの名称であり、また、上で述べたようにその名のごとく「町」でもあります。現在この「少年の町」は、全米12の州で16カ所に展開し、当然、「少女」も対象としており、その名称も「少女と少年の家(Girls and Boys Town)」となっているようです(当時、「少女」はどうしていたのでしょう?映画にも出てきていません、有色人種の子どもも出てこないのです…この当たりが時代の制約でしょうか)。

【books】
 この作品は、フラナガン神父の著作に基づいていますが、邦訳されたかどうかも不明です。
【videos, DVDs】
 ビデオがセル・レンタルでリリースされています。そんじょそこらのレンタルショップにはないでしょうが、TUTAYA新宿店で私は見つけました!

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# by harufe | 2005-01-05 21:25

赤ひげ (1965/日)

「赤ひげ」とは~名医の条件

【staffs】監督 : 黒澤明
出演 : 三船敏郎(新出去定(赤ひげ))、加山雄三 (保本登)、土屋嘉男(森半太夫)、江原達怡(津川玄三)、香川京子(狂女)、山崎努(佐八)、二木てるみ(おとよ)、頭師佳孝(長次)、藤山陽子(ちぐさ)、内藤洋子(まさえ)
【prises】1965年キネマ旬報ベスト1、キネマ旬報監督賞(黒澤明):ブルーリボン最優秀賞、主演男優賞(三船俊郎)、助演女優賞(二木てるみ):毎日映画コンクール日本映画大賞:ヴェネチア国際映画祭主演男優賞(三船俊郎)
【my appraise】★★(2 per 5)
【prot】
 保本登は、長崎でオランダ医学を学び、江戸に帰ってきた。学んできた医学をもとに、立身出世をめざす意気盛んな若者である。
 父親に命じられ顔を出した先は、小石川療養所。そこでは、「赤ひげ」と呼ばれる療養所長を含め3名の医者が、貧しく行く当ても希望もない多数の人々を治療していた。そして、保本の意志とは裏腹に、彼は、小石川療養所で住み込み医師として働くことを決められていたのだ。
 留学中の婚約者の心変わりもあり、最初は反発し意固地になる保本であるが、次第に赤ひげの患者に向かう姿勢に共鳴していく…。
【impression】
 日本を代表する映画監督黒澤明の中期の傑作で、原作者の山本周五郎に「原作よりもいい」と言わせしめたとか。
 黒澤明らしいヒューマニズムに溢れた作品なのですが、より重要な黒澤の要素である娯楽作品としての造りが影を潜めているため、私はあまり評価していません。狂女(香川京子)や佐八(山崎努)のくだりに、エンターテイナーとしての黒澤の片鱗が垣間見られますが、全般に、内省的で意外性の少ない映画になっています。退屈するというほどではありませんし、それなりに、楽しめる作品ではありますが、ドキドキ、はらはらする映画ではありません。
 「羅生門」「七人の侍」で国際的な評価を確立していた黒澤明が久々に国際舞台で脚光を浴びた作品でもあります(この作品を最後に、三船俊郎は黒澤作品に登場しません)。この作品の後の作品は、「影武者」「乱」など興行的には成功し、それなりの評価を受けた作品はあります。ただ、中期と比較して内容的に見るべきものがなく、「赤ひげ」を黒澤最期の佳作という見方もできるでしょうか。
 黒澤明監督は30作中で、中期までに23作を残していますが、その中に、医療を主題に扱った映画は、「赤ひげ」を入れて3作品(「酔いどれ天使」(1948)、「静かなる決闘」(1949))あります。比較的、医療こだわった監督といって良いように思います(その他は、野村芳太郎監督、大森一樹監督(医師免許を持っているのである意味自然ですが)でしょうか)。
 初期の2作品は、この作品と異なり、荒削りですが、ヒューマニズムと娯楽性・活劇性のバランスのとれた作品となっています。ヒューマニズムを語るためには、医療という素材が扱いやすかったのかもしれません。
【staffs】
 保本登が長崎留学中に心変わりされるのが藤山陽子演じる「ちぐさ」、そして、映画の最後の方で、あたかもその代役かのように「ちぐさ」の両親が縁談を進めるのが「ちぐさ」の妹、内藤洋子(右写真)演じる「まさえ」。
 美人でしとやかなタイプの藤山陽子と、今風(当時)で妹的でありながら小悪魔的な内藤洋子(本当かな?)の使い分けが、黒澤監督らしいといえば、黒澤監督らしい。
 内藤洋子さんは、喜多嶋舞さんのお母さんなんですね。

【medical view】
 「良い医者」の代名詞として「赤ひげ」が使われます。漫画「ブラックジャックによろしく」以降、手塚治虫の「ブラックジャック」という言葉も使われるようになってきましたが、まだ「赤ひげ」のほうが一般的でしょう。
 ただ、実は、私は、「赤ひげ」=名医とする風潮に相当疑問を感じています。

 「赤ひげのような医者」と誰もが使う表現ですが、実際に、映画「赤ひげ」を見たり、原作の小説を読んだことがある方は、実は少ないように思います。その割には、「赤ひげ」の言葉が人口に膾炙しており、またそのイメージは、なぜか、共通しているように思います。まず、第1に、貧しい人からお金をとらず、金儲け主義ではない、第2に、患者や家族のために親身になってくれる、更に第3に腕がよい、といったイメージではないでしょうか。
 さて、この3つの要件を、映画「赤ひげ」に照らして合わせると、どうでしょうか(映画は原作に大変忠実に作られていますので、原作の小説に照らし合わせても同じです)。
 まず、第1の「貧しい人から金をとらない」という「赤ひげ」要件です。確かに映画の中で、赤ひげは、貧乏な人にはお金をとらないで診療しています。しかし、これは、小石川療養所が、幕府が経営していて、お金のない人を無料でみる医療機関というだけで、実は当たり前です。だから、偉いのは、赤ひげというより、幕府、あるいは、小石川療養所を作った徳川吉宗ということです。
 ただ、小石川療養所は、決められた予算の範囲で診療を行う医療機関のようです。そのため、患者が増えて、多くの診療を行うと、決められた予算をオーバーし、赤字になる仕組みです。これは、多くの欧米の公的な医療機関と同様であり、一方で、現在のわが国の公的医療機関とは異なります(わが国では、公的な医療機関を含む全ての医療機関は、患者が増えれば、その分が診療報酬として支払われている)。
 そのため、赤ひげは、より多くの貧しい人の診療を行うために、お金持ちからべらぼうな代金を要求して、経営にまわす努力をしています。これは確かに、なかなかできないことです。ただし、現在のわが国ではそんなことをする必要はありませんので、それを「名医」の条件にすることはないでしょう。また、欧米の病院の経営者が寄付を募ったり、チャリティーパーティをやるために奔走しているみたいなもので、経営トップとしては、当たり前の行為といえるかもしれません。金持ち患者を脅すより、寄付を募る方が、紳士的かもしれないですし。
 という意味で、貧しい人からお金をとらない…というのは、赤ひげは別に偉くありません。医師の鑑というより、経営者としては一定の資質を備えているということは言える程度でしょう。
 「金儲け主義」でないというところが、赤ひげの優れたところと考えられているのかもしれません。というのも、医療は、通常、患者側が自分の状態を判断し具体的に何をどうしてほしいか決められません。現在の日本の保険制度(正確には「診療報酬制度」という料金制度では)、やればやるだけその分収入になる(「出来高制」といいます)か、決められた額が支払われるか(「まるめ」又は「定額払い」)のどちらかです。お金儲けに走るとすれば、「出来高制」の下では不要な診療をたくさんやる、「まるめ」の下では必要な診療をやらない…ということになります。「金儲け主義」=適切な医療を行わない医師、ということになります。そこに、清貧の赤ひげを求めるということになるのでしょうか。
 しかし、この考え方には意義を唱える方がいます。漫画「ブラックジャックによろしく」に登場する心臓外科医のモデルになったという南淵明宏氏は「いい医者・いい病院の見分けかた」の中で、「病院のレベルは医者の乗る車でわかる」と喝破しています。どういうことかというと、「好い病院は患者が集まる、患者が集まれば病院の経営状態も良い、経営状態が良ければ医師にも相応の報酬を支払える、したがって医師が良い車に乗れる、だから病院の駐車場で医師が良い車に乗っていれば良い病院だ」…ということです。
 現状からいえば、この意見には異論がないわけではありません。
 ただ、優れた医者が、余裕のない生活を送らないと医療が成り立たないというのは、大変困った仕組みです。
 もちろん、「金儲けが出来る」という気持ちだけで医師を目指す人が増えることは、困ったことです。医師には高い倫理性と人間性を持っていてしかるべきでしょう。しかし、高い教育と技術を身につけた者が、清貧に耐えなくてはならない…というのは、果たして正しい姿でしょうか。普通の人間を基準にすると、努力しても清貧…というのでは、どうしても、真面目に努力することへの動機づけが弱まります。また、「衣食足りて礼節を知る」を知るという言葉通り、一定の安心できる生活基盤があってこそ、倫理性と人間性が発揮しやすくなるのではないでしょうか。そもそも、例え「金儲け」が好きであっても、腕が良く、患者本位の医師は、優れた医師として歓迎すべきではないでしょうか。
 医師がリッチであることが嫌われるのは、ジェラシーもあります。「成功した人に対する嫉妬心」は、誰もが持つ者です。それはそれとして、名医の条件に清貧であることを入れる必要はないと思います。
 この点、現代版名医である「ブラックジャック」は、その技術に対して、法外な料金を要求し(医師法無視の自由診療だからですけど)、「患者の命を懸けて手術する医者が十分な金をもらってなぜ悪いんだ!」と喝破し、ある意味で、「健全」です。なお、彼は、お金のない困った方には無料で手術するような「赤ひげ的」なこともやりますが、保険がきかないのですから、自慢するほどのことではないでしょう。
 とはいえ、現在のところでは、「医師がリッチになって何が悪い」と言い切りにくい状況にあります。そのためには、まず、医師の選抜や教育の際に、倫理性と人間性の欠けた「金儲けだけ」が目的の者を排除する必要があります。また、何よりも、患者の側に、「いい加減で儲けているのか」「まじめにやって儲けているのか」を見分ける消費者性やそれを支える情報開示が要求されるでしょう。

 さて、この観点から気になるのが、「赤ひげ要件」の第2、「患者・家族に親身」です。
映画では、赤ひげは、患者に対して、決して親切ではなく、無骨でぶっきらぼうです。本人や周囲の者が何といおうと、自分が患者のために正しいと思うことは貫き通します。つまり、「親身=親の身になる」といっても、父親的な親身なのです。これは、ブラックジャックも同様です。
 この「父親的親身」を名医とするところが、私には、やや心配な点です。「父親的親身」(パターナリズム)は、お医者様に全てをお任せする「お任せ医療」に通じます。「医師と相談しながら、自分で決める」という態度ではないわけです。「自分で決める」からには、自分で情報を集め、勉強し、判断する必要がありますが、それを放棄しているわけです。
「難しいことは分からない、ボタン1つで動くこと」は電化製品に要求されることでしょう。電化製品と医療を一緒にするのもなんですが、消費者とすれば、その方が有り難いことは間違いないです。ただ、電化製品は、優れているかどうかは、買って使ってみればすぐ分かります。 しかし、医療はそうはいきません。つまり、消費者として賢くなることが要求されるわけです。
 消費者が賢くならなければ、インチキをして儲けているのか、技術が高くて儲かっているのかが、区別できません。そうなると、儲けている=悪い医者という図式も否定できなくなります。
 人が「頑固オヤジ」を求める理由は、「それが楽」というだけ以外に、「愛想でごまかしていない」というのもあるでしょう。さらに、失われつつある父親=絶対者を求めたいというメンタリティがあるのかもしれません。
 もちろん、医師が、頑固で信念を持つことは、悪いことではありません。しかし、映画の中の赤ひげのような頑固さを名医に条件に加えるのは問題があります。そこに人は「この人に任せておけば間違いがない=自分は何も考えなくても良い」という、心持ちがあると思うからです。

 私が、未だに何十年前の映画や小説をもとに、「赤ひげ」を名医とするのに疑問を感じるのは、以上の理由です。

 さて、最後に、蛇足のようになりますが、赤ひげ要件の第3「技術が高い」です。
 実は、映画の中で、赤ひげの医師としての腕の良さは、全く登場しません。ただ、名医だということになっていて、大名からお金をふんだくる場面はでてきます。むしろ、「あらゆる病気に治療法などない」とか「医者は症状と経過は認めることができるし、生命力の強い個躰には多少の助力をすることもできる、だが、それだけのことだ、医術にはそれ以上の能力はありゃしない」と開き直っております。
 ある意味、当時の医療水準からすれば正直で「無知の知」的なレベルの高さは感じます。ただ、技術が高いことは全くうかがい知れないところです。

【books】
 原作は山本周五郎「赤ひげ診療譚」。
 周五郎は、1903年生まれ(黒澤明は1910年)。大衆娯楽雑誌に執筆活動を続け、「純文学」を重視するわが国に文壇では黙殺されがちでした。エンターテイメントを追求したという意味で、黒澤明と相通じるところがあるような気がします。ただ、黒澤が「巨匠」と芸術家として祭り上げられたのに対して、周五郎は直木賞固辞を初め「文学賞」など既成の権威に敢然と抵抗したのだそうです。
 『赤ひげ診療譚』は、1958年「オール読み物」に8回連載され、TVドラマ化もされ人気を集めたのだそうです。
 原作の「おくめ殺し」の章以外は、原作に忠実に作られた映画です。
【videos, DVDs】
 04年春に、黒澤明の映画はDVDとしてレンタル・リリースになりました。まともなショップなら、この作品も置いていることと思います。

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# by harufe | 2005-01-04 21:56 | 基礎医学と医療制度

アイリス:Iris (2001/英)

G30.1 晩発性のアルツハイマー<Alzheimer>病
F00.1 アルツハイマー<Alzheimer>病の痴呆,晩発性


【staffs】監督 : リチャード・アール
出演: ジュディ・デンチ(Iris Murdoch)、ジム・ブロードベント(John Bayley)、ケイト・ウィンスレット(Young Iris Murdock)、ヒュー・ボネヴィル(Young John Bayley)
【prises】2002年アカデミー賞、主演女優賞(ジョディ・デンチ)ノミネート、助演男優賞(ジム・ブロードベント)受賞、助演女優賞(ケイト・ウインスレット)受賞 :ゴールデン・グローブ賞助演男優(ジム・ブロードベント)受賞、英国アカデミー賞主演女優(ジョディ・デンチ)受賞
【my appraise】★★★★(4per5)
【prot】
 若き日のアイリスは、小説家をめざし、知的で、奔放で、複数の男性とつきあう魅力的な女性。ジョンは、そんなアイリスに惹かれたがために、彼女に振り回される日々。しかしアイリスが選んだのは、ジョンだった。
 熟年夫婦となった二人、ジョンのアイリスへの崇拝は変わらない。アイリスは、小説家として成功し、ジョンも大学教授。アイリスは20世紀を代表する作家の1人として尊敬を集め、充実した日々を送っている。
 そんな日々、アイリスの異常に自らも、周囲も気がつく。アルツハイマー病を発症したのだ。アイリスを必死に勇気づけ、介護につとめるジョンだったが…。
【impression】
 主人公のアイリス・マードックは、実在の方(1999年お亡くなりになりました)で、20世紀のイギリス文学を代表する女流文学者とのことです。 日本でも「ユニコーン」とか、何冊かが訳出されています(私自信は、残念ながら読んだことがないのです)。
 映画は、若い時代のアイリスとジョンと、年老いて後のアイリスとジョンの話が同時並行的に進みます。 若きアイリス(ケイト・ウィンスレット!)は、多くの男性と同時並行的につきあい、性的にも奔放です。一方のジョンは、おどおどして、ぶきっちょでアイリスに振り回される一方、ただ、アイリスへの想いは誰にも負けません。 そして、アイリスは、最後にジョンを選びます。 このあたりジョンのアイリスへの崇拝の一途さと、若きアイリスが自分自身に抱く「恍惚と不安」がうまく描かれていているため(ケイト・ウィンスレットがうまい!)、 ジョンとアイリスが結びつくところが、とても自然に写ります。
 ジョンがアイリスを自転車で追いかけるシーンは、映画CMにも使われましたが、『突然、炎のごとく』の場面を彷彿とさせる美しい場面です。
 そして、老いて後のアイリスとジョン。アイリスは作家として成功し、オピニオンリーダーとして確固たる地位と賞賛を得ています。 夫のジョンも大学教授として活躍しますが、アイリスへの崇拝ぶりは全く変わりません。ジョディ・デンチ演じる老いて後のアイリスは、毅然として、若き日のアイリスと、ダブりながら、それでいて、また違う女性としての魅力に満ちています。
2人に子どもはいないようですが、老いた二人の愛の形に、見ている方は引き込まれていきます。 しかし、この幸福は、アイリスがアルツハイマー病を得るところから、大きく様変わりをしていきます…。
 この映画、内容的には、感動する人と、感動しない人がいると思います。ある種の喪失体験を抱えた(「経験した」ではなく)人の方が、この映画の意味は伝わりやすいように感じます。
【staff】
 上の文章からお分かりのように、私は、ケイトウィンスレットのファンです。
 この映画では、裸身を晒して、体当たりの演技なのですが、意外に豊満というか、デブなのでした。多分、役作りにかけては、ロバート・デニーロ並の彼女のこと、きっと役作りなのだろうと思います…。

【medical view】
 痴呆を扱ったシネマは、少なからず存在しています(東芝ケアコミュニティさんのページに、痴呆以外の高齢者介護を含め、ある程度網羅されています)。ドキュメンタリーでも、なかなか見られる機会が少なくなってしまったのですが、もはや古典となった羽田澄子監督「痴呆性老人の世界」 (1986)などが優れた作品です。
 それらは、確かに、痴呆を描き、それをモチーフとした映画ではあるのですが、何か物足りないものを感じていました。この「物足りなさ」の正体が何なのか、自分でもよく分からなかったのですが、『アイリス』を見て、その疑問が解決しました。

 「痴呆の高齢者のケアは、家族がする方がかえって難しい」、とよく言われます。これは、家族が、痴呆になる以前のその人の人格や生き方を知るだけに、この人がこんなはずはない…という想いを強く抱くからだということです。
 痴呆は、その人の記憶を奪い、その人の人となりすら変えてきます。 愛する妻や夫そして、父や母が、自分の描いていた人でなくなってしまうということです。 その中で、手あかにまみれた言葉ですが、「愛がためされる」ということが起きるのではないでしょうか。相手との関係が深ければ深いほど、相手との時間や記憶、そして相手そのものが失われていくことは、とても耐え難いものに違いありません。 ある種の喪失体験に通じる、つらい体験であるような気がします。
 ジョンのアイリスへの崇拝が、若い時代から二人の愛のフレームでした。 そこには、毅然として振る舞うアイリスと、それを無制限で認め、賞賛するジョンがありました。それが若き日から老いて後まで一貫してきたことが、映画では表現されています。アイリスのアルツハイマー病は、それを根底から崩しかねないものだったのです。 そこに、「痴呆のケアの大変さ」で終わらない、大きな問いかけを私は感じます。
 この映画は、英国のアルツハイマー病協会からも表彰されています(DVDにはその内容も納められています)。したがって、ジョディ・デンチの演技力を含め、アルツハイマー病を理解するためにも悪くない映画だと思います。
ただ、この映画、単に「痴呆を理解する」ために見るには勿体ない映画です。まずは、アルツハイマー病を描いたフィルムというより、アイリスとジョンの愛の形を描いたフィルムとして見るべきだと思います。そして、2人の愛の形から、痴呆というものをより良く理解できるようになるのではないかと思います。これはこの映画が、映画としてもオスカーの主要3部門にノミネートされているように、なかなかよくできているからでもあるでしょう。

 ところで、映画の中の「痴呆」は、既に主題としてよりも、背景として使われることも多くなっています。例えば、ジェリー・ザックス「マイ・ルーム」(1996/米)、ロドリゴ・ガルシア監督「彼女を見ればわかること」(1999/英)、今村昌平 「赤い橋の下のぬるい水」(2001)、佐々部清「半落ち」(2003)などです。
 これも高齢化が進んだ先進国における現象ということなのでしょうか。
【tilte, subtilte】
 タイトルは言うまでもなく主人公の名前です。
 邦題に、よくぞ副題をつけなかったものだと思います。うっかり「愛がためされるとき」とか、つけられそうですが。

【books】
 原作は、アイリスの夫で文学研究者でもあるジョン・ベイリーが著した“Elegy for Iris(アイリスへの挽歌)”です。この本は、「作家が過去を失うとき アイリスとの別れ 1」「愛がためされるとき アイリスとの別れ 2」という邦題で、2分冊で訳出されています。
【videos, DVDs】
 レンタルDVDがリリースされています。日本では単館上映だったこともあって、比較的ショップに置いていないようです。こういうときは、DISCASが便利です。
 なお、本作とは直接関係ありませんが、映画照明技師である渡辺生氏が自分の妻トミ子さんを映した「おてんとうさまがほしい」(1995)風 流れるままに アルツハイマー病の妻と生きる」(2000)の2部作(特に「風 流れるままに」の方)は、アイリスと同様な観点で、大変興味深い作品です。

【おことわり】
 「痴呆」の用語は、昨年暮(04/12/24)厚生労働大臣の通達により今後法令等で、「認知症」と変更される予定です。→新聞報道、→役所の通達。これにともない、マスコミ各社も「認知症」の用語を用いることと思われます。ただ、このブログを書く時点では、「認知症」という用語が馴染まないので、「痴呆」とさせていただきました。痴呆性高齢者という言葉も、10年前に使われるようになった言葉(以前は、「痴呆性老人」という言葉しかなく、「痴呆性高齢者」という言葉はなかったのです)なのですが、時代の変化は早いです。
 なお、念のためですが、痴呆の原因の多くがアルツハイマー病であるだけで、両者は同義語ではありません(特に日本では、アルツハイマー病以外の脳血管性痴呆が、痴呆の原因としては多い)。

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# by harufe | 2005-01-03 07:13 | ICD G00-G99神経系の疾患

エデンへの道 -ある解剖医の一日-: der Weg nach Eden(1995/独)

剖検

【staffs】監督 :ロバート・エイドリアン・ペヨ
出演 :ケシェリュー・ヤーノシュ
【prises】(not worth mentioning)
【my appraise】★★★★+(4 plus per5)
【prot】
 ブタペストの病理医ヤーノシュの日常を綴ったドキュメント。
【impression】
 日常としての解剖が、淡々と非日常的に展開される。モノとしての死体を通じて、生と死を考えさせられる真面目なドキュメント。
 病理医ヤーノシュの職業としての剖検が、自身の内面や日常との対比で描かれているが効果的。
 死体を扱っている映画ということで、やや際物的な扱いを受けている場合があるようですが、私は、この作品を、大変真面目な作品として高く評価します。

【medical view】
 副題の「解剖医」という言葉なのですが、ありそうでいて、実は存在しない言葉です。
 ヤーノシュの職業は、正しくは、「病理医」です。「解剖」という非日常性に目を奪われた日本語スタッフが、「解剖医」という名称を思いついたのだと思います。ヤーノシュが行っている解剖は、病理解剖であって、あくまでも死後の人体の臓器や病変を確認し診断を下すために行っている解剖です。解剖そのものが目的ではなく、解剖医というのはちょっと変です。
 「解剖医」という名前だけなら苦笑いで済みますが、ネット上の解説でヤーノシュが葬儀屋を兼務などとありました(TSUTAYA onlineなど)。どうやら、ヤーノシュがエンゼルケア(死化粧などの死後の処置)をしているのを、「葬儀屋」ととったのでしょう(確かに、日本で病理医がエンゼルケアまではやらないのが通常で、そのくらい荘厳な心がけで解剖を行うべき、と病理医は考えていると思います)。
 ところで、現在、わが国では、死後に病理解剖(剖検)するということがあまり一般的ではありません。ただ、診断・治療技術の向上のためには、本来、全てのご遺体を剖検すべきであるというのは、世界中の医療関係者が一致した意見でしょう。
 通常、剖検が行われる前に、医療スタッフの側から、解剖させていただきたいとご家族に申し出ることになります(医療ミスが疑われる場合などは、患者家族の側から解剖を依頼するケースもあります)。しかし、哀しみの中にある家族に急に「解剖」と言われても、なかなか受け入れられるものではない、というのが現状です。
 最近、特に剖検率が落ちているようです。病理医不足とか、患者・医師関係がうまくいっていない(患者側の権利意識の高まりと医師側のコミュニケーション不足・認識不足)とか、色々な説があるようですが、1990年前後は主要な病院だと、死後5割は剖検していたのではないかと思いますが、現在では2割を切る病院が少なくないようです。剖検率を高めるには、患者・医師が相互に信頼できる関係にある必要がありますし、医療従事者側にまじめに病因を探索しておこうという真摯な姿勢・体制が必要となります。したがって、剖検率が、病院の質の指標になるという考え方があるようです(患者家族に剖検を強いているような病院はないと信じたいです)。例えば、わが国では日本内科学会が認定する「認定内科医」「内科専門医」の教育病院では、内科剖検体数が16体以上あること,または内科剖検率が20%以上で内科剖検体数が10体以上あることが必須条件の1つになっています。
 ただ、剖検率が減ってきているのは世界的な現象のようで、原因の追及が必要な、深刻な事態だと思います。一般の人々が、死後の病理解剖の必要性を十分認識できるもらうような情報提供や啓発も必要なのではないかと思います。
 医学書院『週刊医学界新聞』の伊藤康太先生の2004年7月の記事が参考になります。
 それと、医学書院『内科臨床誌 medicina』2005年4月号より、「病理との付き合い方 病理医からのメッセージ」という連載が始まりました。主としてドクター向けの記事ですが、一般の人でも分かるレベルで分かりやすく書いてあります。
第1回医療のなかの病理学
第2回病理とのつきあい方

 全く余談ですが、医学書院は、ウエブに記事内容まで掲載せてくれているし、本当に有り難いです。それに、雑誌に依頼原稿を書いただけで『週刊医学界新聞』をずっと送ってくれるし、儲かるのかしら?と心配になってしまいます(記事を出版して儲けているようですが…)。

以前リンクしていた毎日ライフの記事はネット上から削除されています。

 私自身父親を一昨年に亡くしましたが、その際には、主治医(ウロ)から剖検のお申し出がありませんでした。主治医には相当無理をお願いしていたこともあり、また、最初の主治医が胃がんを誤診し、膀胱への転移を見落としていたこともあり、お願いされれば、他の家族を説得して喜んでお受けしようと思っていたのですが…。
 中核市とはいえ地方の市民病院(国保直診)では、剖検の体制もないのかしら…と思いつつ、失礼な気もして、こちらからは、申し出ませんでした。

 病理の仕事も、最近は生きた組織・細胞レベルを顕微鏡で検索する仕事が主となってきて、病理学=病理解剖というイメージではなくなっています。病理医は臨床では無くてはならない存在ですが、どちらかというと裏方のような存在で、臨床の要でありながら「基礎」という一括りで軽視される傾向にあるのが残念です。

 なお、犯罪や自殺などの異常死を扱うのは、法医学であり、そこで活躍するのが監察医で、そこで行われる解剖は「法医学解剖」です。特定の毒物や刃物などによって人体、臓器、組織がどのようなダメージを受けるかという点において、病理医とは異なる専門性が要求されるのです。
 また、養老孟司元東大教授で有名な解剖学という分野がありますが、ここでは正常な構造の人体の解剖をミクロマクロ的に研究するとともに、医学教育を行うところです。解剖学の専攻する医師を、解剖医とは呼ばないですね、やっぱり。
【tilte, subtilte】
 原題のder Weg nach Edenはドイツ語1年生でも分かる「エデンへの道」。
 副題の「解剖医」は上述したように、不適切な語句。更に、ビデオタイトルの「死体解剖医」は、キワモノ狙いとしか思えず、残念。

【books】
 森卓也さん『映画そして落語』で、本作品が取り上げられているようです(私は読んでませんが)。
【videos, DVDs入手しやすさ】★★★
 ビデオ・DVDともレンタルがリリースされています。レンタルDVDはなかなか置いていないようです。私は、DISCASでお借りしました。

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# by harufe | 2005-01-02 12:56 | 基礎医学と医療制度

八日目: Le Huttieme Jour(1996/仏)

Q90.9 ダウン<Down>症候群,詳細不明

<コンテンツ販売元が運営する公式?ウエブサイト>
【staffs】監督 : ジャコ・ヴァン・ドルマル
出演: ダニエル・オートゥイユ(ハリー)、パスカル・デュケンヌ(ジョルジュ)、ミウ=ミウ(ジュリー)、アンリ・ガルサン(ハリーの会社の重役)
【prises】96年カンヌ国際映画祭最優秀男優賞(ダニエル・オートゥイユ、パスカル・デュケンヌのダブル受賞)
【my appraise】★★★+(3 plus per5)
【prot】
 エリート銀行員のアリーは、仕事仕事の毎日で、別居中の妻だけではなく、子どもたちにも見放されてしまった。そんな、アリーが、ある日ひょんなことから、ダウン症のジョルジュの面倒をみることになってしまう。ジョルジュは施設に入所しているが、何年も前に母が死んだことを理解できず、母親の元に帰ろうとしていたのだ。
 ジョルジュとの交遊で、癒しを見出すアリーだったが、2人には意外な結末が待っていた。
【impression】
 日頃ハリウッド映画や日本のTVの安直な筋立てに慣れていると、フランス映画は、ややごちゃごちゃしたイメージがあります。
 ただ、この映画は、とても分かりやすく、すっきりしたお話で、伝えたいこともすっきりと伝わってくる映画です。
 予想外の結末には異論があるところですが(私も異論があります)、より多くの人を安心させるより、監督が伝えたいメッセージを伝えるということと理解すれば、納得できます。
 下に述べるように、障碍を理解するために優れた映画ということも言えるのでしょうが、それ以前に、映画として、なかなかの水準にあります。
【staffs】
 主人公の一人ジョルジュを演じるのは、パスカル・デュケンヌです。奇跡的なほどに、ダウン症を演じている…と思ったら、実際、ダウン症で障碍者の劇団で活躍している俳優さんとのことです。
 相手のエリート営業マン・ハリーを演じるダニエル・オートゥイユというフランスでは超一流の俳優。
 これらを聞くと、いろんな意味で感心してしまいます。

【welfare point of view】
 ダウン症については、「日本ダウン症ネットワーク」のHPの中の説明「知っておきたいダウン症の医学」をご参照下さい。
 この映画は、ダウン症の方の家族や専門家の方々からみても描写が優れていると評価されているようで、日本ダウン症ネットワークのHPでも『八日目』を特にとりあげて推奨しています。このページで、「本作品はダウン症を持つ青年ジョルジュと猛烈型のビジネスマン、ハリーの関わりを通じて、現代人が忘れかけている大切なものを教えてくれます。それは、私どもダウン症を持つ子どものいる家族やダウン症の子どもたちを援助している専門家が感じていることでもあるのです。」(転載)という表現があります。私は、これが福祉の観点からみた最も適切な評価と思われます。
 障碍を持つ人々、特に知的障碍を持つ人々の場合は、健常者の世界の因循姑息や権謀術数には余り縁がありません。そのこともあって、障碍そのものや、障碍を持つ人々を神聖視する考え方があるようです。ただ、障碍者は、障碍という個性を持った一人の人間であり、言うまでもなく、性欲もあり、健常者と同じように欲望を持つ人間です。したがって、「障碍」を、過度に神聖視することは適切ではないと考える人もいます。私も同様の違和感を感じる方の人間です。
 ただ、障碍をもつ人々と共感できるようになると、健常な人間の持っている世界観そのものが矮小で、そこで起きている摩擦や消耗など下らないように思えてくることはあります。これは、障碍者の方々の持つ世界観が素晴らしいというのではありません。むしろ、障碍を持つことによって、健常な人々が当たり前とすることが当たり前でなくなっているが故に、健常人をインスパイヤするような世界観を持ちえているのではないかと思います。
 このことが、「障碍を1つの「個性」として捉えよう」という発想につながるのでしょう。つまり、障碍を持つ人々への「偏見」を無くすために「個性」として捉えるというより、「特別な人として自分の世界の外に置くのではなく、世界観を共有する」ことが、健常者にとっても得るものが大きいということです。「情けは人のためならず」と言ってしまうと、ちょっと実も蓋もないのですが…。
 この当たりの話は、もっとうまく説明しないと、かえって誤解を招く気もしますが、残念なことに、私の力量を超えていますので、この当たりにしておきます。
 いずれにせよ、こういった意味で、本作品は、障碍や障碍者をテーマにした映画というより、普通といわれている人々の世界の矮小さを、障碍という素材を用いて表現した映画のように思います。
【tilte, subtilte】
 神が6日間で世界を創り、7日目には安息をとられた、という旧約聖書の話を捩ったもの。
 映画の中で、「この世の初めは無だった。あったのは音楽だけ。一日目、神さまは太陽をつくった。二日目、神さまは海をつくった。三日目、神さまはレコードをつくった。四日目、神さまはテレビをつくった。五日目、神さまは草をつくった。六日目、神さまは人間をつくった。日曜日、神さまは休息なさった。ちょうど七日目だった。そして八日目にはジョルジュを創った」と、ユーモラスに語られます。
 なお、このコーナーのトップの原題'Huttieme'は、正しくは後ろから2つめのeにアクサン・グラーブがつきます。
 邦題は直訳です。

【books】
 この映画の多分ノベライズである「八日目」という書籍が出版されていましたが、現在絶版で、入手できません。
【videos, DVDs】
 DVDが発売されていますが、セルオンリー。ビデオのほうは、セル・レンタル共にありますが、レンタルを扱っているショップはそう多くないようです。

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# by harufe | 2005-01-01 14:23 | Q00-Q99 先天奇形変形染色体異常

ロレンツォのオイル 命の詩 :Lorenzo's Oil (1992/米)

E71.3 脂肪酸代謝障害(副腎白質ジストロフィー)

【staffs】
監督 :ジョージ・ミラー
出演 :ザック・オマリー・グリーンバーグ(Lorenzo)、ニック・ノルティ(Augusto Odone)、スーザン・サランドン(Michaela Odone)
【prises】(not worth mentioning)
【my appraise】★★★★+(4plus per5)
【prot】
 5歳の聡明な少年ロレンツォは、学校での奇妙な行動をきっかけに、不治の難病ALD(副腎白質ジストロフィー)を発見される。数年の命を宣告され徐々に歩行や言語に障害が現れる中、食事療法も免疫療法も効果が無い。
 両親は、必死になって自ら治療法を探し始め、父は、極長鎖脂肪酸の産生を抑える食事療法がかえって血中極長鎖脂肪酸を高めていることをヒントに、ある推論をたてる…。
【impression】
 これもメディカル系の映画の筆頭にあがる映画です。
 実話をもとに作成され、考証も正確。厳密なリアリティの上になりたったストーリーと演技が、共感と感動を呼ぶ…という、良質な映画の1つの典型だと思います。
【staffs】
 ニック・ノルティとスーザン・サランドンが、ALDの子どもを持つ親を好演しています。個人的には、ニック・ノルティは、『ケープフィア』で見せた、弁護士で、頼りになりそうでいて、イマイチ頼りにならない父親役とダブるところ、そして、スーザン・サランドンは、『テルマ&ルイーズ』で見せた、「立ち上がる女」とダブるところが、この映画に深みを与えました。まあ、こういう見方は邪道なんでしょうが。
 もちろん、ザック君の好演も見逃せません。

【medical view】
 この映画で主題となっているALD(副腎白質ジストロフィー)は比較的珍しい病気の上に、病気の成り立ちが複雑であるため、なかなか一般には理解されにくい病気だと思います。詳しくは、この病気を持つ患者の家族の方が作っておられるサイト(ALD)がとても分かりやすく、そして詳しいので参考にしていただければと思います。
 メディカル系のテレビ・映画をよく見られる方なら、ER第5シーズンでダグ(ジョージ・クルーニー)がシカゴを去ることになったのもこの病気がきっかけ…と言えば思い出されるでしょうか。モーゲンスタンER部長退職後に採用された偽医者の部長(アマンダ)が、オイルは?とお母さんに聞き、母親が、もうそういう時期ではないの…と答える場面(うろ覚えですが)がありましたが、あれはロレンツォのオイルのことなんですね(偽医者がよく勉強しているものです…あ、この映画見てたのか、そうだよな、初期にしか使えないということすら分かってなかったのだから)。
 映画の方だけ見ると、父親の推論というか論理展開は、納得のいくところで(自然科学的着想だし)、あたかもロレンツォのオイルでALDが救われるかのように見えてしまう部分があります。しかし、実際は、そう単純ではないようです。今のところ、ロレンツォのオイルは、確かに幼少期発症の型の一部に一定の効果があるが、エビデンスは明確でなく、もっか、研究段階にあるようです。つまり、残念ながら、この映画より、ERの方が正確な考証のようです。このあたりのことは、メリルストリープ主演の「誤診」やとともに、いずれ論じたいと思います。
 ちなみに、「ロレンツォのオイル」は、日本では保険適用になっていません。これも、エビデンスが明確でないことが大きな要因でしょう。一方的に制度を否定するつもりはありませんが、大変な病気を抱えつつ、それ以上に負担をかけるというのは、心情的には納得しにくいところです(ちなみに、保険の適用はありませんが、日本薬局方に収められているため、薬監の手続きをとれば、選定医療として混合診療の例外扱いにはなりますが…詳しい説明は省略します)。
 いずれにせよ、大変残念なことに、現在、ALDの治療は希望が少ないと言わざるをえません。その中で、医療従事者側ではなく、患者側の知恵と努力の結晶であるロレンツォのオイルが、一筋の光を投じていることは、特筆すべきでしょう。
 この映画では、医師側、患者会の「体制側」とロレンツォの両親の対立が映画の中で描かれますが、これも興味深いところです(この点については、アメリカ医療制度の紹介で有名な李啓充氏のページ(医学書院)が参考になります)
 ところで、この映画に関して、ネット上で、「副賢白ジストロフィー」という不可思議な語句が飛び回っています(「副腎白質ジストロフィー」に似て非なる語句ですね。ちょっと検索してみて下さい。びっくりするくらい多いです。)。誰かが間違えたのをそのままコピーペーストしている間に広まったのだと思います。ネットの情報のいかがわしさと、意味も分からない専門用語を無理に使おうとする哀しさと、自らにも戒めなくては…と思いました。私の名前は、「賢」という字が入るのですが、以前、教えていた看護学生から「腎」と間違えて書かれることが数度あり、妙に納得したことがあります(何しろ腎臓の「腎」ですので)。それと、逆ですね。だけど「白ジストロフィー」ってなんだろうなあ。

 さて、ここからは、知性と教養のあると自信のある方のみがお読み下さい。そうでない方が読むと、妙な偏見に至る可能性があります。
 ALDという病気は、X染色体に乗っている遺伝子が発症をもたらす、伴性劣性遺伝というタイプの病気です。具体的には、X染色体上のALD遺伝子情報のキャリアである母親から、基本的には、2分の1の確率で息子にだけ遺伝する病気です(伴性劣性遺伝でも娘に全く症状が出ないということではありませんが、例えばALDの場合、娘が発症するとしても症状はマイルドで中高年になってからとのことです)。同様の病気で、比較的知られているのは、血友病や筋ジストロフィー(デュシェンヌ型)があります。
 したがって、この病気を持つ息子を授かった母親というのは、愛する息子の不幸だけでなく、それが自らの遺伝によるものという冷酷な事実と、二つの衝撃的な事実を受けとめなくてはなりません(妊娠前に自分がALDのキャリアであることを知る女性も理屈上はいらっしゃるとは思いますが…)。
 つまり、母親が「自分のせいで息子が苦んでいる」という「罪の意識」を持つ場合があるということで、このことが、夫婦間の意識の差にも表れる場合があるようです。いちがいには言えませんが、自分がその立場におかれたと想像すると、母親が自罰的になり、父親が他罰的になるのはやむをえないような心持ちになります。
 この微妙な背景を知りつつ、この映画を見ると、ニック・ノルティとスーザン・サランドンの演技の絶妙さが理解できます。なお、脚本的には、ER第5シーズンの方が深いように思います(母親は、息子が苦しんでいる姿に耐えきれず、ダグに安楽死を懇願するのに対して、離婚して別居している父親は、息子の最期に出会えなかったと、ダグを告訴する)。
 私が、「知性と教養のある」と断ったのは、「遺伝」という言葉を使った瞬間に、多くの知性と教養のない人たちが、「自分に関係ないこと」と妙な安心をすることです。こういう「他人事」的な感覚を持つ知性と教養のない人々は、かえって高学歴や高い社会的地位にある人に多いように思います。私は、こういう人たちやこういう感じ方に強い不快感を持ちます(そういう人の多くは、高学歴でありながら、遺伝と遺伝子の区別もつかない)。
 遺伝子プールという考え方があるのは、理系の方の多くはご存じと思います。また、人類の遺伝子は、通常その数パーセントしか用いられていないということもご存じでしょう。更に、鎌形赤血球症の遺伝子のように、一見、病気をもたらす遺伝子が、特定の地域では生存に有利(マラリアに耐性がある)であるという話もあります。
 人類は、遺伝子プールという共通の種の源泉を共有し、個々の底では全てつながっているようなイメージでしょうか。なにやら、ユングの集合的無意識のような話ですが。
 こういう感覚で、ALDのような遺伝疾患を考えると、それが、我々人類にとっての共有の「財産」であると同時に、共有の苦しみであり、ある意味、我々を代表して苦しんでおらえるとしか思えません。ヒューマニストぶっているようですが、科学的合理的な発想に立てば、おのずとそういう考えに至ります。
 だからこそ、「他人事」的なメンタリティーは、無教養で無知性のものとして、と感じるのです。
 この当たりについて興味を持たれた方は、テーマは異なりますが、統合失調症について書かれたデイヴィッド・ホロビン著「天才と分裂病の進化論」をご参照下さい(統合失調症も、「遺伝」と結びつけて、「他人事」とする無教養な人々が多い疾患の1つだと思いますので)。
【tilte, subtilte】
 ストレートな原題ですが、邦題はそれにサブタイトルをつけています。
 配給会社がつけそうな副題ですが、どうなんでしょうかこの副題は…。私が気にするほどのことはないですが、無神経な副題のような気もします。

【books】
 関連書籍は販売されていないようです。
 なお、上で紹介した、この映画について言及している李啓充氏の週間医学界新聞の連載は、まとめられて、医学書院から『アメリカ医療の光と影 医療過誤防止からマネジドケアまで』として発売されています。
【videos, DVDs】
 レンタルDVDがリリースされていて、比較的多くのショップで扱っているようです。

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# by harufe | 2004-12-31 09:53 | ICD E00-E90内分泌栄養代謝疾患

愛は静けさの中に :Children Of A Lesser God (1986/米)

H91.9 難聴,詳細不明(全聾)

【staffs】監督:ランダ・ヘインズ、音楽:マイケル・コンヴェルティーノ
出演:William Hurt ウィリアム・ハート(James)、Marlee Matlin マーリー・マトリン(Sarah)、Piper Laurie パイパー・ローリー(Mrs.Norman)、Philip Bosco フィリップ・ボスコ(Dr.Curtis_Franklin)
【prises】1986年アカデミー賞、作品賞ノミネート、主演男優賞(ウィリアム・ハート)ノミネート、主演女優賞(マーリー・マトリン)受賞 、助演女優賞(パイパー・ローリー)ノミネート
【my appraise】★★★★-(4 minus per5)
【prot】
ジェームズ(ウイリアム・ハート)は、聴覚障碍を持つ子どものための学校に赴任してきた型破りの教師。彼は、その学校で掃除婦として働く、美しい女性サラ(マーリー・マトリン)に惹きつけられる。彼女は聾学校の卒業生で、激しい性格の女性だったが、自分の障碍のために傷つけられ心を閉ざしていたのであった…。
【impression】
 ジェームスは、サラの傷ついた心に共感し、サラはジェームスを受け入れる。
 しかし、サラは、障碍を持つことを哀れまれることを拒否するだけではなく、自立した女性としてありたいと願っている。自分に従属することを無意識に望むジェームスと、ことごとく衝突する…。
 と、途中までは、女性監督だけあって、うまく調理されたフェミニズムの映画として見ておりました。ジェームスが、自分が男であり健常者であるが故に、女であり障碍を持つサラを従属させようという露骨な態度は、ウイリアム・ハートがうまいのか、地なのか、区別できないくらいよく演じられていました。
 しかし、結局、映画は、その当たりをうやむやにして、2人は邂逅する。
 その結果、フェミニズムの映画としても、障碍を扱う映画としても、中途半端なものになっているような気がします。ただ、その代わりに、恋愛映画としては、秀逸なものになっている気がします。
 難点をあげるとすれば、健常者の観客のためにだと思いますが、サラが使う手話をジェームスがいちいち言葉で訳すところです。健常者には、わざとらしくうるさいし、聴覚障碍者には、その内容が分かりません。
 字幕にすべきだったのではないかと思いますが、どうでしょうか?
【staffs】

 やや時代遅れのファッション・髪型とはいえ、誰もがサラ役のマーリン・マトリンの美しさに惹かれると思います。実は、彼女は演技の上だけでなく、実際に聴覚の障碍を持っています。その意味で貴重な存在でもあり、マーリンは、この映画以外にも、聴覚障碍者の役で、何本かの、ハリウッド映画に出演しています。
 彼女は、映画の後、私生活でも、実際にウイリアム・ハートともおつきあいしたそうです。しかし、「自分はオスカーを逃したのにもかかわらず、マーリンがオスカーを受賞したことで、ウイリアム・ハートが嫉妬して別れた」という、ホントかどうか分かりませんが、いかにもウイリアム・ハートらしい逸話が残っています。

【welfare point of view】
 最近になって、ようやく、聴覚障碍をもつ子どもに対する読話・発語を中心としたコミュニケーション教育が、健常者の都合に過ぎないことの認識が広がっているようです。しかし、この映画の背景となった時代では、そういった認識がほとんどない時代だと思います。
 ジェームスは、聴覚障碍を持つ子ども達に、読話(唇の形から話している内容を読み取る)と発語を教える教師です。彼は、子ども達を教えることには長け、生徒に人望があり、頑迷な校長に比較すると、随分、障碍を持つ子どもたちを「理解」しているように見えます。
 しかし、一方で、ジェームスは手話がかなりぎこちない設定になっています。これが、ジェームスは、聴覚障碍を持つ子ども達を理解しているようでいて、実は、健常者の方に歩み寄ることを強いている、無意識の傲慢さを表しているようです。こういう傲慢さは、ジェームス個人の問題というより、時代や社会の問題として考えるべきかもしれません。
 私の認識が間違っていなければ、現在でも、聴覚障碍を持つ子どもに、手話を主体としたコミュニケーションを習得させるか、読話・発語を主体としてコミュニケーションを習得させるかは、かなり難しい問題だと思います。
 いずれにしても、健常者の側が、聴覚障碍者へ歩み寄る、例えば、手話が教養人の嗜みになるような社会にならない限り、サラのジェームスに対する苛立ちは解消されないように思います。「障碍は、個性である」というフレーズがありますが、聴覚障碍はまさに「個性」であって、 その沈黙の世界を、誰もが共有できればと思います。
 そういう私は聴覚障碍を持っておらず、手話は全くできません。若い頃、勉強する気になったのですが、手話にも、日本語、英語があるんだと聞いて(考えてみれば当たり前ですが、手話という言語は世界で1つと勝手に思っていたのです)、ちょっとやる気が失せたままになっています。この勘違いも、相当、「健常者」的な発想だと、今では思います。
【tilte, subtilte】
 原題の“Children of a lesser god”は、分かったようで分からないフレーズです。原作の訳者である青井陽治氏は、このタイトルを、『小さき神の、作りし子ら』と訳しています。
 原作の戯曲では、1ページ目に、イギリスビクトリア朝の詩人Alfred Tennyson (1809-92) の詩句が引用されています。
  For why is all around us here
  As if some lesser god had made the world,
  But had not force to shape it as he would ?
    何故に、我らの前には、このような世界しかないのか…
    力無き神でもが、この世界を創ったがために、
    彼の望んだような世界が造られなかったということなのか(私の訳です)
 この詩句は、アーサー王伝説を素材とした膨大な作品の一部から引用されているそうです。アーサー王は、ここで、この世界と造り賜うた神の御業を讃えつつ、自分が戦い続けなくてはならない、そして信じる者に裏切られなくてはならないこの世界を嘆き、この言葉が出るのだそうです(以上、三村利恵氏のページを参照させて頂きました)。
 しかし、この詩句を素直に読み、“Children of a lesser god”のタイトルを解釈すると、「神の力がないから、聴覚障碍を持つ不幸な子どもが生まれてくるのだ」と読めてしまいます。私は上で述べたように、そう解釈はしたくないのですけれど。
 原作の邦訳の「小さき神」というのは、詩的で悪くない訳だと思います。ただ、原作の邦訳は、古い訳のためか、全般に固い訳で、意味が伝わりにくく(そういうわけで、私の下手な訳を載せたのですが)、「小さき神」も敢えてそう訳したのでなく、lesserを素直に訳したのではないかと、穿った見方をしてしまいます。「作りし」は、「創りし」だと思うし。
 いずれにせよ、『小さき神の、作りし子ら』だと、映画のタイトルとしてはちょっと通用しにくい…と配給会社が考えるのは無理のないところです。ということで、「愛は静けさの中に」という訳に落ち着いたのでしょう。悪くない邦題だとは思いますが、原題の格調高さは失われています。
 昔ヒットした邦画、「愛は国境を越えて」「愛は空の果てへ」当たりからとったんでしょうかね。

【books】
 マーク・メドフの戯曲『小さき神の、創りし子ら』は前述のように和訳されましたが、現在絶版のようです。この戯曲は、今でも結構演じられるようです。
【videos, DVDs】
 レンタルDVDが04年2月にリリースされました。置いていないショップも多いようですが…。
 なお、聴覚障碍を扱った映画は、今後もいくつかは解説していきますが、「デフ映画」として相当網羅したデータベースサイトを作っておられる方がおられますので、ご参考まで。

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# by harufe | 2004-12-30 01:31 | ICD H60-H95 耳乳様突起の疾患